展示

14 戦争と市民

問題

解答

昭和6年(1931)の柳条湖(りゅうじょうこ)事件で始まった日中間の戦争は、12年の蘆溝橋(ろこうきょう)事件で本格化した。翌年、戦争遂行に必要な資源・労働力を優先的に使用するため、国家総動員法が定められ、国民は戦争協力体勢に組み込まれていった。昭和16年には太平洋戦争が始まり、昭和19年には本格的な本土空襲が始まった。

戦争と市民展示風景

14-1 召集

名古屋には、歩兵第六連隊をはじめとする第三師団が置かれていたが、昭和12年(1937)に日中戦争がぼっ発したので、中国大陸へ派遣された。戦争が本格化するとともに、兵役適齢者はつぎつぎと召集をうけた。さらに、兵役年令の拡大や、学徒の徴兵猶予を停止することにより、兵士の不足を補った。愛知県出身者の全戦没者数は、約10万人といわれている。

充員召集令状(じゅういんしょうしゅうれいじょう)

充員召集令状
(じゅういんしょうしゅうれいじょう)

14-2 戦時下のくらし

戦争遂行のための軍需工業が優先されるにともない、市民の消費生活は次第に圧迫されていった。昭和13年(1938)民間用綿製品の製造・販売が禁止されたのに続き、生活物資の切符・配給制が順次導入され、代用品も現われた。一方、戦争協力のために町内会は行政組織の末端とされ、また翼賛壮年団・婦人会などの戦争協力組織が職場・地域に幾重にもつくられた。

回覧板 湯のみ たすき(かいらんばん ゆのみ たすき)

回覧板 湯のみ たすき
(かいらんばん ゆのみ たすき)

14-3 空襲

昭和19年(1944)12月、東区の三菱重工業発動機製作所がB29に爆撃され、名古屋でも本格的な空襲が始まった。空襲の目標は当初軍需工場であったが、翌年からは市街地にも広がった。空襲による名古屋市の被害は、建物面積の40%を焼失、死者約8,000人であった。空襲から児童を守るため学童疎開も実施され、地方に親戚などがないものは、集団で疎開させられた。

焼夷弾(しょういだん)

焼夷弾
(しょういだん)

14-4 復興する名古屋

昭和20年(1945)8月15日、日本の無条件降伏によって戦争は終わった。空襲で家を失った市民は焼け跡にバラックを建て、市内各所にはヤミ市が開かれた。この頃、名古屋市は思い切った戦災復興の都市計画を実施した。防災上の理由で50m・100m道路を造り、また計画に必要な土地を確保するため、市内の墓地を平和公園に集めた。
現在は小学校3年生の社会科学習にあわせた展示内容となっています。

名古屋市復興都市計画図(なごやしふっこうとしけいかくず)

名古屋市復興都市計画図
(なごやしふっこうとしけいかくず)