展示

9 城下町の人々

問題

解答

城下町名古屋は、慶長年間の清須越(きよすごし)によって武士・町人を主体とした町として成立した。城下の規模は東西約5.7km、南北約6.1kmで、城を北に置く逆三角形の形をしていた。人口は江戸時代中期から幕末まで、武士とその家族がおよそ4万人、職人・商人などの町人が5~7万人と、江戸・京都・大坂の三都に次ぐ都会であった。

城下町の人々展示風景

9-1 くらし

町人の多くは城の南の碁盤割に区画された地域に住み、南北に走る本町通りは、町の中心となった。商品経済の発達につれ町人の経済力は強くなるが、服装・髪型などの細かなところまで身分制に縛られ、ぜいたく禁止等の規制も受けた。発掘された城下町関係の遺跡からは、食器、灯火具などが出土しており、当時の生活の一端をかいま見ることができる。

城下町の遺跡から出土した陶磁器(じょうかまちのいせきからしゅつどしたとうじき)

城下町の遺跡から出土した陶磁器
(じょうかまちのいせきからしゅつどしたとうじき)

9-2 しごと

江戸時代、商人は低い身分であったが、呉服商、米穀商、質屋などの中には、大きな経済力を持つものも現われた。名古屋では、江戸時代前期には「清須越」の由緒のある商人が、中期には関戸家・伊藤家・内田家など新興商人が活躍した。職人のなかには、鋳物職人を支配した水野家や、鍛冶職人を支配した津田家のようなものもいた。

商いの用具と貨幣(あきないのようぐとかへい)

商いの用具と貨幣
(あきないのようぐとかへい)

9-3 たのしみ

江戸時代は倹約を旨とし、ぜいたくは禁じられた時代であったが、人々はそれぞれに楽しみを見つけた。城下の祭や、四季折々の行事、芝居・見世物・相撲や寺社の開帳・富くじ興行などには大勢の人が出かけてにぎわった。また、春には堀川堤の桜、秋には七寺の紅葉や中根の萩と、四季の名所に遊ぶことも手軽な楽しみであった。

享元絵巻(きょうげんえまき)

享元絵巻
(きょうげんえまき)

9-4 旅人

江戸時代の人々に自由な旅は許されていなかった。武士は参勤交代の大名に随行するなど、公用の旅に限られ、一般の人々は商用の旅や、伊勢参宮をはじめとする寺社参詣に限られていた。しかし、厳しい制約のなか、人々は旅に出れば物見遊山を楽しんだ。交通手段や宿泊施設の発達していなかった当時、旅の道具もそれぞれ工夫がこらされていた。