展示

8 尾張藩の成立

名古屋市博物館は、リニューアル改修に伴い令和5年10月1日(日曜)から令和8年度(予定)まで長期休館中です。こちらのページは休館前の常設展示室の様子になります。

問題

解答

関ヶ原の戦いにより、天下の支配者となった徳川家康は、江戸に幕府を開いた。尾張には、家康の子徳川義直が移封され、御三家の一つとして重要な役割を果たすことになった。尾張藩は尾張一国、三河・美濃などの一部を領地として与えられ、領内には東海道などの街道が通り、城下町名古屋は尾張の政治・経済・文化の中心として栄えた。

尾張藩の成立展示風景

8-1 城下町の成立

徳川家康は、清須から名古屋に城を移す計画をたて、慶長15年(1610)から約4年をかけて名古屋城を築いた。築城にともない、清須から武士・町人・寺社はもとより、町名や橋の名までが名古屋城下に移された。これを清須越(きよすごし)と呼び、城の周囲に武家屋敷、碁盤割(ごばんわり)の部分に町家、防衛上の要所には寺社を配した、計画的な町づくりが行われた。

8-2 藩主と家臣

慶長12年(1607)、徳川義直が尾張に移封され、初代尾張藩主となった。譜代大名の多くが国替により領地の変更を受けたのに対し、尾張徳川家は江戸時代を通じてこの地方を支配した。尾張藩には、成瀬・竹腰のように幕府から配属された付家老をはじめ、万石以上の年寄、城代など、番方(軍事)・役方(行政)合わせて100以上の役職が設けられ、藩政にたずさわった。

紫糸威最上腹巻(むらさきいとおどしもがみはらまき)

紫糸威最上腹巻
(むらさきいとおどしもがみはらまき)

8-3 統制

幕府は、士農工商の身分制にもとづき民衆を支配した。キリシタン禁止を徹底させるため、民衆の宗旨や檀那寺を調査し、宗門人別改帳に登録した。この改帳は治安維持のための住民台帳にもなった。キリシタン禁止など重要な法令は、高札にして人通りが多い場所に掲示した。犯罪者に対する刑罰には、たたき・所払い・死罪などがあった。

江戸幕府高札(えどばくふこうさつ)

江戸幕府高札
(えどばくふこうさつ)

8-4 街道と宿場

尾張国内には、幕府支配下の街道として、江戸と京都を結ぶ東海道が通り、鳴海と宮(熱田)に宿がおかれた。宮から伊勢の桑名へは海路となり、「七里の渡し」と呼ばれていた。そのほか、美濃路や佐屋街道も通っていた。宿場には、公用の人足・伝馬を提供する問屋場をはじめ、大名などの宿泊所である本陣・脇本陣、一般旅行者用の旅籠などがあった。

8-5 藩領と年貢

尾張藩の藩領は尾張全域をはじめ美濃・三河など6国にわたり、それぞれの石高は尾張が47万石余、美濃13万石余、三河5千石、近江5千石余、摂津2百石で、合わせて約62万石におよんだ。その他、無高であったが木曽(信濃)も藩領となり、その木材資源は藩の収入となった。この内、尾張には約千の村があり、庄屋などの村役人の責任で年貢が藩に納められた。年貢の大部分は米であったが、三役銀のように金銭で納めるもの、堤普請、助郷役のような労役提供もあった。

愛知郡御器所村絵図(あいちぐんごきそむらえず)

愛知郡御器所村絵図
(あいちぐんごきそむらえず)