展示

7 尾張の統一と信長・秀吉

問題

解答

織田信長は尾張・美濃地方を勢力下におさめると、京都に上り全国統一を推し進めた。志なかばで信長が倒れた後、豊臣秀吉がこれを引き継ぎ、農民・商工業者との身分の区別がはっきりしはじめ、江戸時代の身分制度の基礎となった。また、全国の土地に検地が実施され、石高を基準にして軍役や年貢が課せられるようになった。

尾張の統一と信長・秀吉展示風景

7-1 統一への動き

織田氏は守護代として尾張を支配していたが、応仁の乱が始まると、東軍方と西軍方に分かれて争った。その後も織田氏の分裂は続き、清洲城を拠点とした織田氏が尾張の南部を、岩倉城の織田氏が北部を、分割して支配した。16世紀中頃、清須方織田氏に仕える奉行の一人であった織田信秀は実力をたくわえ、津島地方から熱田に進出し、統一への足がかりを築いた。

織田敏定画像(おだとしさだがぞう)

織田敏定画像
(おだとしさだがぞう)

7-2 信長と秀吉

岩倉城を攻略し、尾張の統一をほぼ完成させた信長は、美濃攻略に着手した。これ以後信長の目標は全国制覇に向かい、楽市楽座や交通路の整備などの新しい政策を打ち出していく。信長の没後、秀吉がその後を継ぐ形となり、天下取りの道を進む。検地・刀狩などの政策を取り、主要な都市や金山・銀山を支配下におさめ、ほぼ全国統一をはたした。

織田信長坐像(おだのぶながざぞう)

織田信長坐像
(おだのぶながざぞう)

7-3 在地武士たち

濃尾平野には、農村に基盤を持つ武士が多くいた。このような在地武士は城や館を構え、おのおの勢力拡大の動きを示していたが、次第に織田・豊臣氏の家臣団として組織されていった。信長・秀吉によって全国統一が進められる過程で、大名となり出身地を離れた者、尾張にとどまり尾張藩士となった者、戦いの中で滅びた者など、たどった道はさまざまであった。

7-4 清洲

応仁の乱頃に築かれた清洲城は、次第に尾張支配の中心となった。織田信長も一時ここを居城とし、その後の尾張の支配者の居城となった。城下の人口はおよそ6~7万人と推定され、当時としては日本有数の都市であった。名古屋築城にともない、清洲は廃墟となったが、江戸時代の古城絵図や近年の発掘調査により、当時の様子をうかがい知ることができる。

清須古城図(きよすこじょうず)

清須古城図
(きよすこじょうず)