展示

4 古代の尾張

名古屋市博物館は、リニューアル改修に伴い令和5年10月1日(日曜)から令和8年度(予定)まで長期休館中です。こちらのページは休館前の常設展示室の様子になります。

7世紀後半、日本に律令制度が導入され、地方行政単位としての「尾張国」が誕生する。政治の中心である国府は尾張平野の中央部(現稲沢市)に設けられ、鎮護国家の考えにより、国府の近くには国分寺・国分尼寺が建てられた。平安時代になると、律令制度にゆるみが生じ、国司の暴政により地方政治が混乱した。

古代の尾張展示風景

4-1 律令の時代

大化の改新後、中国の律令にならい、中央集権的な国家づくりが始められ、次第に全国の土地と人々を直接支配する仕組が整えられていった。地方は一般に国・郡・里に分けられ、尾張国には八つの郡が設けられた。公地公民の制により、農民には口分田が分け与えられ、租・庸・調などの税のほか、数々の労役が課せられた。

和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)

和名類聚抄
(わみょうるいじゅしょう)

4-2 解文と人々のくらし

地方の政治は中央から派遣されてきた国司が郡司に任ぜられた地方豪族を通じて行った。国司の任務は主として農民の支配・租税の徴収であったが、平安時代に入ると、不正な税を課し、私利をむさぼる国司が多くなった。尾張では10世紀から11世紀にかけて、郡司・百姓らと国司の抗争が激しくなり、国司の暴政を中央政府に訴える事件が頻発している。

尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)

尾張国郡司百姓等解文
(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)

4-3 古代の仏教文化

地方豪族が勢力をのばすとともに、全国に仏教寺院が建立されるようになり、尾張地方にも多くの寺院が建てられた。その中には廃寺となってしまったものも少なくないが、出土する瓦などによってその姿の一端がうかがわれる。これらの地方寺院では、大規模な伽藍の整備や写経、仏像の製作などが行われ、都の仏教文化を地方につたえる上で、大きな力となった。

七寺 観音菩薩坐像(ななつでら かんのんぼさつざぞう)

七寺 観音菩薩坐像
(ななつでら かんのんぼさつざぞう)