過去の展覧会の紹介

この展覧会はすでに終了しています。会期は前年度以前の日付です。

企画展 小栗鉄次郎
-戦火から国宝を守った男-

会期:平成21年8月1日(土)~9月13日(日)
閉館時間:午前9時30分~午後5時00分(入場は午後4時30分まで)
休館日:毎週月曜日(8/3・10・17・24・31、9/7)と第4火曜日(8/25)

観覧料

一般 300円 (400円)
高大生 200円 (300円)
小中生 無料 (無料)

※( )内は、2階常設展示「尾張の歴史」との共通料金

・30名以上の団体および名古屋市交通局発行のユリカ・一日乗車券
・ドニチエコきっぷでご来場の方は、一般・高大生50円引
・身体等に障がいのある方で手帳のお持ちの方(介護者も2名まで)は、観覧料無料

この展覧会は、小栗鉄次郎の明治・大正・昭和の70年間にわたる記録をもとに、愛知の文化財の歴史と、文化財と共に歩んだ氏の足跡を紹介します。

展覧会の構成と概要

Ⅰ.史蹟名勝天然紀念物調査会と小栗鉄次郎

いまから90年前の大正8年(1919)、文化財を守るための新しい法律「史蹟(しせき)名勝天然紀念物保存法」が制定され、これを受けて大正11年(1922)に愛知県史蹟名勝天然紀念物調査会が発足しました。
 昭和2年(1927)、調査会がはじめて計画した「愛知県史蹟名勝天然紀念物展覧会」が開催されました。当時小学校の教師をしていた小栗鉄次郎(46歳)は、収集した考古資料をこの展覧会に出品しました。この出来事が、小栗が教職を離れ、調査会主事として新しい道を歩みはじめるきっかけになりました。
 昭和2年から20年(1945)まで、小栗は調査会主事として文化財の保護に努めました。
 ここでは、小栗の調査会主事としての活動を通して、愛知の文化財の歴史をふりかえってみたいと思います。

1.遺跡・遺物の保護

小栗は、県内における史跡調査の増加、遺跡や資料の調査収集に対応できる専任の主事として、国史跡指定のための準備調査、考古学的な調査を主に担当しました。
 兜山(かぶとやま)古墳や雷(いかづち)貝塚・おつくり山古墳・高蔵寺瓦窯などの破壊された遺跡では、過去の記録や現状を調べることから始めています。
 長らく所在不明であった兜山古墳の鏡(写真1)は、小栗の調査記録がなければ再発見できませんでした。

兜山鏡

愛知県指定文化財 兜山古墳から出土した鏡 古墳時代 館蔵

青塚古墳・西志賀貝塚など一部が破壊された遺跡では、現状を記録し、考古学や人類学の専門家と一緒に調査を進めました。
 昭和14年(1939)、瑞穂陸上競技場の建設工事によって発見された大曲輪(おおぐるわ)貝塚では、たくさんの土器や石器がみつかり、縄文時代の遺跡であることが明らかになりました。緊急発掘調査の結果、大曲輪貝塚は昭和16年(1941)1月に国史跡として指定されました。
 小栗は、このような遺跡や遺物の保護のほかに、美術工芸品や建造物等の文化財保護にも積極的に取り組みました。  昭和8年(1933)に「重要美術品等の保存に関する法律」が公布されて以降、重要美術品の指定に向けての調査も調査会の大切な仕事の一つでした。
 広報普及活動も小栗の仕事でした。史跡などの見学旅行や講演会、講習会の開催、出版物やラジオをとおして新しい調査成果を紹介すること等も併せて行っていたのです。
 このような多忙な仕事の合間をぬって、他府県の資料調査も実施していました。新聞やラジオ、書物で知る知識には限りがありました。各地の人々と交流し、史跡や資料を調査し、収集することは、調査会の仕事にたいへん役立ちました。

2.戦時下の文化財保護

昭和12年(1937)の日中戦争に始まる状況の悪化をふまえて、16年(1941)1月、東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)は、美術品の保護対策にのり出しました。戦争によって文化財に被害が及ぶことを想定しての決断でした。
 16年12月、太平洋戦争が始まりました。19年(1944)1月には「国宝及重要美術品の防空施設(ぼうくうしせつ)実施要項」が決定され、その後、美術品の疎開(そかい)が実施されました。
 戦時下の愛知県では、名古屋市内の社寺等に保管された文化財、中でも笠覆寺(りゅうふくじ)所蔵の色紙墨書(しきしぼくしょ)妙法蓮華経(写真2)をはじめとする国宝(旧国宝=現在の重要文化財に相当)や、名古屋城障壁画(しょうへきが)の疎開とその保護が急務でした。小栗たちの尽力によって、これらの文化財は無事疎開し、被害を免れました。

重要文化財 色紙墨書妙法蓮華経 平安時代 笠覆寺蔵

重要文化財 色紙墨書妙法蓮華経 平安時代 笠覆寺蔵

Ⅱ.文化財とともに歩んだ道

小栗が歴史に目覚めたきっかけは、小学校の教師として過した時代に始まります。
 やがて教職を去り、調査会主事として文化財を守る仕事に携わることになった小栗にとって、仕事を離れても文化財は大切な一生の友でした。  ここでは、個人としての小栗と文化財とのかかわりを、記録を手がかりに考えてみます。

1.歴史に興味をもつ

何にでも興味をいだき、多感な学生生活を過ごした小栗は、教師としての生活の中で、積極的に歴史や考古学の研修に参加し、多くの研究者とまじわり、公私ともに充実した毎日を過しました。
 身近に存在した遺跡を訪ね、遺物を採集する野外活動は、休日に行われました。子供たちと土器や石器を採集した日々が、日誌に記録されています。
 林間学校で小栗の勤務する学校をおとずれた名古屋の正木小学校の子供たちを自宅に招き、収集した考古資料を見せ、地元の歴史を説明しました。
 史蹟名勝天然紀念物保存協会愛知支部の講習会や見学会に参加したのもこの頃でした。
 教職を去る直前、勤務先の小学校で、アメリカから子供たちに贈られた青い目の人形の歓迎会を行いました。
 愛知県史蹟名勝天然紀念物調査会主事となった小栗は、前記した仕事のほかに、鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)博士の県史調査を援助しましたが、この調査は昭和5年度を最後に頓挫(とんざ)してしまいました。
 昭和6年(1931)、香坂愛知県知事のもとで『愛知県史』の編纂事業が再開しました。小栗は委員となり、新しい県史の完成に協力しました。
 昭和11年(1936)には考古学を専門とする民間サークル、名古屋考古会が生まれ、小栗も積極的に活動に参加しています。

2.文化財を調べる

考古学が生活の一部である小栗にとって、調べた資料を自宅で整理し、まとめることは、仕事中にはできないもう一つの楽しみだったようです。
 中でも、銅鐸(どうたく)や鏡・瓦などの遺物の集成作業が特筆されます。
 銅鐸に興味を持った小栗は、過去の銅鐸の出土例についても調べ、基礎的な資料を集めました。名古屋市瑞穂区軍水町から出土した中根の銅鐸(写真3)の再発見は、小栗と京都大学梅原末治の研究の成果でした。

重要文化財 袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸 弥生時代 名古屋市瑞穂区軍水町出土 (財)辰馬考古資料館蔵

重要文化財 袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸 弥生時代
名古屋市瑞穂区軍水町出土 (財)辰馬考古資料館蔵

昭和20年(1945)、調査会を退職した小栗(64歳)は、以後晴耕雨読(せいこううどく)の日々を過します。
 地方に博物館のなかった時代、子供から大人まで、小栗は自宅に多くの人を迎えました。収集資料(写真4)を通して実物にふれる機会を提供し、郷土の歴史をわかりやすく語りました。

小栗鉄次郎が収集・保管した考古資料 縄文~室町時代

小栗鉄次郎が収集・保管した考古資料 縄文~室町時代

《展示説明会》
8月1日(土)「史蹟名勝天然紀念物調査会と小栗鉄次郎」
8月29日(土)「文化財とともに歩んだ道」
 いずれも午後2時から
 会場:展示説明室(当日先着100名)
 解説:当館学芸員 聴講無料

掲載写真以外のおもな展示資料

・重要文化財 壺形土器 弥生時代 名古屋市熱田区高蔵遺跡出土 東京国立博物館蔵
・重要文化財 袈裟襷文銅鐸 弥生時代 福井県坂井市春江町井向出土 個人蔵
・重要文化財 菊蒔絵手筥(きくまきえてばこ) 室町時代 熱田神宮蔵(8月26日~9月13日展示)
・重要文化財 舞楽面 崑崙八仙(ころばせ) 平安時代 4面のうち1面 熱田神宮蔵(8月1日~23日展示)
・重要文化財 絹本著色(けんぽんちゃくしょく)騎馬武者像 室町時代 地蔵院蔵(8月1日~23日展示)
・重要文化財 七寺一切経(ななつでらいっさいきょう)・黒漆一切経唐櫃 平安時代 七寺蔵
・重要文化財 尾張国解文(げぶみ)残巻 鎌倉時代(正中2年8月11日書写) 宝生院蔵
・重要文化財 帝鑑図(ていかんず)〔高士渡橋〕(名古屋城障壁画のうち) 江戸時代 名古屋城蔵
・灰釉(かいゆう)魚文瓶子 鎌倉時代 愛知県幸田町山寺出土 徳川美術館蔵
・青い目の人形 昭和前期 額田郡幸田町立幸田小学校蔵

ひ孫と遊ぶ小栗鉄次郎(昭和41年11月23日、鉄次郎86歳)

ひ孫と遊ぶ小栗鉄次郎(昭和41年11月23日、鉄次郎86歳)

(以下は2009年6月1日発行「名古屋市博物館だより」188号掲載の展示準備ノートです)

「青い目の人形」と小栗鉄次郎

企画展で扱う小栗鉄次郎の日誌は、愛知県の考古学や文化財保護の歴史と共に教育史の一面をもの語る貴重な資料でもあります。
 以下は、83年前の昭和2年(1927)、小栗鉄次郎(当時46歳)が常滑市鬼崎南小学校(当時の鬼崎南部尋常高等小学校)の校長として4月に赴任し7月に愛知県史蹟名勝天然紀念物調査会主事として学校を去る、わずかの間の思い出深い出来事です。
  この年(昭和2年)、友好を願い日米親善使節として、全国の小学校に約1万3千体の「青い目の人形」が、アメリカから日本に送られてきました。
 鬼崎南小学校の記録によれば、6月1日に職員全員で「アメリカ寄贈人形歓迎会実行ノ件」について協議し、9日に人形を歓迎する学芸会を本校と分校(鬼崎北小学校=当時は鬼崎南部尋常高等小学校の分教場)で、午前と午後の2回行うことを決定しています。
 小栗の日誌には、歓迎会に至る出来事が記録されています。以下日誌のカタカナを一部変更し読みやすくしました。
 「7日、学芸会の予行演習をする。当日児童に配布する菓子等について打合せをし、昼食後榎戸校に帰り、午後1時より学芸会の予行演習をする。終わってプログラムの謄写等をし、夕方までかかる。
 8日、2時間目の授業時間より明日の人形歓迎会の式場をつくり、幕張りなど2時間半程かかる。その後多屋分校へ行き午後1時より式場を本校同様につくる。備品室の戸棚の大掃除を子供に手伝わせる。夕方までに相当きれいになる。夕方榎戸校に帰る。

「アメリカ人形を歓迎する当時の様子」

「アメリカ人形を歓迎する当時の様子」

9日、アメリカ人形歓迎式および歓迎学芸会の準備午前8時半より始める。ミス・ウイリアム氏(米国オハイオ州出身)と高木通訳来校される。式辞を述べ、次にウイリアム氏講話が11時まで。昼食をウイリアム氏と共にする。午後1時より多屋校において歓迎式および学芸会。レイマン夫妻来校、式辞の後熱心に30分程話される。午後4時30分頃終る」。
 職員会議記録にはない、準備のあわただしさや、式当日の様子をうかがうことができます。
 人形を歓迎する歌もうたわれ、子どもたちは大変感激し大歓迎しました。「青い目の人形」は国際親善の役目を十分に果たしてくれたのです。
 日本からも、お礼と親善の心をこめて、子どもたちがお金を出しあって、日本の人形をアメリカに送りました。
 当時、日米親善の象徴であった人形は、太平洋戦争のころには「敵国の人形」としてたくさん処分され、子どもたちの前から姿を消してしまったのです。
 愛知県では現在10体の人形が保管されています。
 鬼崎南小学校には人形は残っていませんでしたが、その後、小栗保管の写真によって「パトリシヤ」という人形の名前や、歓迎会の様子がわかりました。
 写真の人形は、額田郡幸田町の幸田小学校に保管されている「グレース・エッサ」ちゃんです。この人形は、企画展「小栗鉄次郎―戦火から国宝を守った男―」(8月1日~9月13日)で、鬼崎南小学校の「パトリシヤ」ちゃんの写真等と共に展示します。(M. K.)

青い目の人形と小栗鉄次郎氏

左「青い目の人形」愛知県幸田町幸田小学校蔵
右「アメリカ人形を手にする小栗鉄次郎氏」