コレクション

猿猴庵日記

『猿猴庵日記』とは?

 『猿猴庵日記(えんこうあんにっき)』とは、尾張藩士で文筆家・画家として知られる高力種信(こうりきたねのぶ、号:猿猴庵〔えんこうあん〕、生没年1756年から1831年)が著した日記である。

 猿猴庵と言えば、寺社開帳(かいちょう)や参詣(さんけい)、祭礼や見世物(みせもの)興行などを、色彩豊かな挿絵を交えて、詳細にレポートした絵入本を数多く著しており、当館もまとまった「猿猴庵の本」コレクションを所蔵している。

 その猿猴庵が、名古屋城下周辺のできごとを、40年以上にわたって記した日記の総称が『猿猴庵日記』である。『猿猴庵日記』にはいくつかの写本が存在するが、当館が所蔵するのは貴重な猿猴庵自筆草稿本のうち、天明4年(1784年)、天明5年、享和2年(1802年)、文化8年(1811年)、文政2年(1819年)の5年分(全5冊)である(図1)。

和本5冊の集合写真。

図1 猿猴庵日記

猿猴庵の「ネタ帳」?

 現代で「日記」といえば、日々の出来事を著者の思いのたけも交えて記すような、プライベートな記録が思い浮かぶかもしれない。確かに『猿猴庵日記』も著者自身の見聞を踏まえて記されているが、そこに猿猴庵個人の思いが記されることはほとんどないし、身近な人物が登場することもない。この日記において、「猿猴庵」という著者個人の姿は影を潜めているのである。

 むしろ『猿猴庵日記』には、あたかも現代の新聞記事のように、事件や自然災害、寺社の祭礼や開帳といったできごとが、時には挿絵も交えて客観的に記される。「正月晦日(みそか)、城下に猪が八匹駆け込んだ。大曽根口(おおぞねぐち)から入り込んできて……」「某日、矢場地蔵(やばじぞう)で開帳があった。寺宝が公開されてたくさんの人が拝観し、裏門前には茶屋も出て……」といった具合である。

 そして興味深いことに、猿猴庵は日記に記されたいくつかのできごとを、別冊の絵入本に取り上げている。例えば、天明4年3月に蜂須賀(はちすか)蓮花寺(れんげじ)でおこなわれた法要の様子を「蜂須賀大法会(だいほうえ)」(『猿猴庵合集四編』、東洋文庫蔵)に、同年十月から名古屋の大龍寺(だいりゅうじ)でおこなわれた京都泉涌寺(せんにゅうじ)の霊宝開帳を「泉涌寺霊宝拝見図」(猿猴庵の本13『泉涌寺霊宝拝見図(せんにゅうじれいほうはいけんず)・嵯峨霊仏開帳志(さがれいぶつかいちょうし)』に掲載)に取り上げている(図2)。

 特定のできごとを取り上げた著作が「特集号」だとすれば、日記はその「ダイジェスト版」といえる。あるいは本書が懐中(かいちゅう)に入れて持ち運ぶに適したサイズであることを踏まえれば、日記は猿猴庵が携帯していた「ネタ帳」「取材メモ」だったかもしれない。

お寺に展示された屏風絵を解説する様子を描いた挿絵。

図2 泉涌寺霊宝拝見図(猿猴庵合集五編)

共有された日記

 ただし日記には、単なるダイジェスト版やネタ帳にとどまらない特長がある。ものごとを時系列に沿って把握しやすいのだ。「あのお寺で前に御開帳があったのは、いつの事だっけ?」「あの年にはどんな事件があったっけ?」。『猿猴庵日記』はこうした興味関心に応えてくれるのだ。

 「何を当たり前な」と思われるかもしれない。現代では新聞やテレビのようなマスメディアから、ツイッターやインスタグラムといったソーシャルメディアまで、多様なメディアが発達して、日々過剰とも思える情報が蓄積されているから、こうした関心を満たすことはさほど難しくない。

 だが想像してみてほしい。そうしたメディアが発達していない江戸時代、こうした興味関心を満たす手段は決して多くなかったはずだ。お役所の業務や商家の銭勘定についてならまだしも、とりとめもない市井(しせい)のできごととなれば、なおさらである。

 最初に触れたように、『猿猴庵日記』は当館の所蔵する自筆本以外にも、多くの転写本が存在する。なかには名古屋の貸本屋・大惣(だいそう)が所蔵していた本も複数含まれる。つまり『猿猴庵日記』は単なる猿猴庵の手元記録を越えて、貸本や転写本を通して市井に広く流布していたのだ。『猿猴庵日記』は、この地域のできごとに関する知識や記憶を、名古屋城下の人々が広く共有することを可能にしたのである。猿猴庵自身も、日記を編集して世に広めようとした形跡があり、転写本を大惣で見つけてみずから補訂を試みたりもしている。

 ちなみに猿猴庵が日記を書き始めたのは明和9年(1772年)、弱冠17歳のときだ。このころにはまだ、世に知られた著作もない。その意味で、『猿猴庵日記』は記録作家・猿猴庵の原点であるとも言えそうである。

(木村慎平)

猿猴庵日記 館蔵(552-125) 縦17.5×横10.8㎝

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

参考文献

・『猿猴庵とその時代』名古屋市博物館、1968年

・『泉涌寺霊宝拝見図・嵯峨霊仏開帳志』猿猴庵の本(第13回配本)、名古屋市博物館、2006年

・『猿猴庵日記 天明四年』猿猴庵の本(第29回配本)、名古屋市博物館、2023年