横井庄一さんのくらしの道具
写真① 橫井さんのくらしの道具(金属製品)
会期 | 平成27年10月17日(土)~平成27年11月29日(日) |
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休館日 | 10月19日(月)・26日(月)・27日(火) 11月2日(月)・9日(月)・16日(月)・24日(火) |
開館時間 | 午前9時30分~午後5時(入場は午後4時30分まで) |
一般 | 高大生 | 中学生以下 | 市内在住の 65歳以上の方 |
300(400)円 | 200(300)円 | 無料 | 100(200)円 (要敬老手帳等の提示) |
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( )内は常設展との共通観覧料金
*30名以上の団体料金はお問い合わせください。
*身体障害者手帳 戦傷病者手帳 被爆者健康手帳 精神障害者保健福祉手帳 愛護手帳(これに類する療育手帳を含む)の提示により、本人と介護者2名まで無料
*名古屋市交通局の「一日乗車券」「ドニチエコきっぷ」を利用してご来館した場合は、提示により50円引き
*各種割引は重複してご利用いただくことはできません。
写真②③ 出征前の橫井さんと発見直後の橫井さん(横井庄一記念館写真提供)
昭和47年(1972)1月24日、グアム島の南部タロフォフォのジャングルで、1人の残留日本兵が発見されました。この人はタロフォフォ村事務所に保護された後、グアム島警察に移送され、そこで事情聴取されました。そして、愛知県出身の横井庄一さんと判明しました。
横井庄一さんは大正4年(1915)3月31日、愛知県海部郡佐織村(現愛西市)に生まれました。昭和5年(1930)から豊橋市の洋服店に洋服仕立て職人として勤務したあと、昭和11年(1936)から名古屋市の実家で洋服仕立業を営んでいました。昭和13年(1938)5月に最初の召集で日中戦争に従軍し、昭和14年3月に召集解除となり帰国しました。ふたたび名古屋で洋服仕立業を営んでいましたが、昭和16年8月に2度目の召集を受け、満州へ派遣されました。
そして、太平洋戦争開戦以来日本軍が占領していたグアム島防備のため、昭和19年(1941)3月、横井さんたちの部隊はグアム島に移動しました。同年7月にはアメリカ軍がグアム島に来襲し、激しい戦いとなりました。しかし、日米両軍の戦力差は歴然としており、勝ち目がなくなった日本兵はジャングルへ逃げ込みました。ジャングルの中を移動しながら反撃することもかなわず、日本兵も減少してゆきました。横井さんたちは戦争が終わったことも知らずに隠れ続け、横井さんのグループも3人になってしまいました。
やがて、仲間の2人も亡くなり、最後の8年間は1人きりでした。発見されるまでに28年もジャングルにひそんでいたのです。発見されたとき、横井さんは56歳でした。
1月24日の発見後、横井さんはグアム島のメモリアル病院に移送され、精密検査のため入院することになりました。やがて到着した日本人医師団とグアム島医師団との協議の結果、病院を転院するという形での帰国が決まり、2月2日に特別機で帰国されました。帰国した時、「恥ずかしながら生きて帰ってまいりました。」という横井さんの第一声に、多くの国民は「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えた『戦陣訓』を思い出しました。
この展覧会は、三部で構成されています。
■第一部は、展示室壁面ケース内の展示で、次の二つのテーマに別れています。
昭和48年(1973)に厚生省援護局から横井庄一さんに還付され、即日名古屋市に寄贈された、横井さんがグアム島で使用していたくらしの道具64件92点を展示します。この中には、帰国後東京の病院で復元されたものや、横井さんの記憶にはないというものも含まれています。横井さんのグアム島でのくらしは、何もないところからくらしに必要なものを作り出した、いわば「資源を発見する」くらしでもありました。グアム島の身の回りの資源を活かした横井さんのくらしの道具を紹介します。
下の写真は発見されたとき、横井さんが身に着けていた洋服と背負い袋です。横井さんは自分で作った洋服を着て、自分で作った袋を背負っていました。この洋服は、グアム島に自生しているパゴの木から繊維を取って布を織り、洋服に仕立てたものです。背負い袋もパゴの繊維で作っていますが、肩紐はヤシの繊維でできています。横井さんは、生活に必要なものは何でも自分で作っていたのです。発見された日の翌日、1月25日、グアム島警察は横井さんのほら穴を現場検証し、横井さんが自分で作ったくらしの道具を持ち帰りました。その夜、日本人記者団との最初の会見場にこのくらしの道具も陳列されました。これを見た記者たちは、横井さんの不断の努力の積み重ね、類い希な創意工夫が一目瞭然だったからでしょうか、その姿に感嘆の声を上げたといいます。
写真④⑤ 半袖半ズボンの洋服と背負い袋
横井さんのくらしの道具は、グアム島に残された一部のものを除き、横井さんとともに日本に運ばれました。そして、昭和48年6月12日付で、当時の厚生省から横井さんに還付され、同日付で一部を除き名古屋市に寄贈されました。一部を除かれたのは、やはり、手許に置きたいという気持ちからでしょうか。
名古屋市博物館では、開館に先立つ昭和48年から資料収集に取り組んでいましたが、横井さんのくらしの道具は、名古屋市民からの2番目の寄贈資料でした。そして、この時に除かれた一部も昭和53年(1978)に名古屋市博物館に寄託され、平成5年(1993)7月29日に本館に寄贈されました。
本館では、資料整理の後、「600-1横井庄一生活資料」「600-2横井庄一生活資料」の番号と名称を付し、保存しています。これまでも、一部を特別展や常設展の「話題のコーナー」で展示、紹介してきました。また、館外への貸出や出版物などへの写真提供にも対応してきました。しかし、その全貌を紹介するということはありませんでした。今回の企画展では、この横井庄一生活資料64件92点をすべて紹介します。
横井さんのくらしの道具は、6グループに大別できます。
Aグループは既成のくらしの道具で、旧日本陸軍の飯盒や水筒など、横井さんが主としてそのもの本来の形状と用法で使用したもののグループです。スプーンや現地の人々のナイフなどがあります。ハサミで整髪もしていたといいます。ヤシ油を入れたビールビン(横井さんの発見後に割れて、破片のみが残っています)も、一応このグループに入れておきます。このグループには、横井さんが何度も鋳掛けしたヤカンのように、修理を繰り返して使用し続けたものもあります。鋳掛けは沖縄出身の兵士が鋳掛けするのを見て覚えていたといいます。
写真⑥ 飯盒や水筒など
写真⑦ 橫井さんが鋳掛けしたヤカンの底
Bグループは、飯盒(はんごう)や水筒などを横井さんが解体、改造したもので、本来の形状や用法とは異なるものとなったものです。金属製品を切断、加工したものが多く見られました。なかでも、鍋はいくつかの種類があります。飯盒を改造した口の広い手提げ鍋、水筒を改造した深くて蓋(ふた)付きの鍋、水筒を切断した食器は、水筒の口の部分に竹を差せばフライパンにもなり、切断した側板は蓋にも皿にもなりました。金属製品を切断した部分は、すべてに縁取りが施されています。ケガを防ぐ意味が大きかったのでしょうが、職人の意地を垣間みるかのような丁寧さです。
このグループには、ヤシ油を灯したオイルランプなどのように、元の姿が判然としないものもあります。
写真⑧ 水筒を改造した食器 口に竹をさせばフライパンになる
(後述します)
Dグループは、くらしの道具の製作や改造に必要な道具類と材料となったものなどです。銃剣や鉄釘を利用したタガネ、砲弾の帯を切りとった真鍮(しんちゅう)などです。ほら穴を掘ったのは、砲弾を解体して作った小さなクワでした。薬莢(やっきょう)は縫い針などの材料になったほか、蓋を付けて、縫い針のような小さな物の容器にもなりました。
写真⑨ ほら穴を掘ったクワ
写真⑩ 薬莢や真鍮板など
Eグループは小銃と手榴弾です。補給中隊であった横井さんたちは、30発の弾丸しか支給されなかったといいます。
写真⑪ 小銃と手榴弾
Fグループは、帰国後に国内の材料で復元したもので、真鍮で作った縫い針、竹で作った火おこし器、木製の食料乾燥器などがあります。木と竹で作った織機は、帰郷後に横井さんが新たに復元したものを昭和59年に受贈しました。
写真⑫ 帰国後、国内の材料で橫井さんが復元したもの
Cグループは、グアム島に自生する植物を加工したもので、横井さんのくらしの道具の中で、最大で最も多彩なグループです。横井さんのグアム島でのくらしは、生活に必要な最低限のものを作るための素材を探すくらしでもありました。その意味でも、このグループは横井さんのグアム島でのくらしを雄弁に物語るものでもあります。
パンの実、ソテツの実、エビなどを乾燥させ、粉末にすることは数少ない食糧保存の方法でした。エビなどを焼くための竹串、レモンチンの木のスリコギは重要なくらしの道具だったのです。落とし蓋を付けた竹筒は、煙や虫が入らない優れた貯蔵容器でした。
写真⑬グアム島の草木で作ったもの
火を保存することが大切なくらしの中で、ヤシの繊維のロープは火縄としてなくてはならないものでした。ヤシの繊維のかたまりとロープを見れば、職人としての横井さんの修行がどのようなものだったのか一目瞭然でしょう。方形にかたどられたヤシの繊維は素材を大切に取り扱う職人の姿を彷彿とさせます。
完成したロープはラグビーボールのように巻き取られています。その姿には美しさを感じ取ることもできます。横井さんが美を意識したかどうかは分かりませんが、丁寧に巻き取る努力はあったにちがいありません。このような職人としての心構えは、グアム島での横井さんの毎日を支え、励ましたにちがいありません。
ヤシの繊維では草履(ぞうり)を作ることもできました。この草履は半年ほどはくことができたといいます。パゴの木の繊維では腐ってしまうということです。目的によって繊維を使い分けていたのです。
写真⑭⑮ヤシの繊維(左)とヤシの繊維製のロープ(右)
このグループのハイライトの一つがエビやウナギを取るためのウケです。このウケもグアム島の竹を編んだもので、ヤシ殻の蓋を付け、シュロの縄を用いたものです。乾燥させた食糧を貯蔵する籠には竹製と竹皮製があります。ほら穴の周りにも豊富に自生し、加工しやすい竹はさまざまに利用することができました。
もう一つのハイライト、職人としての真骨頂を示しているのがパゴの木の繊維で作った洋服です。半袖半ズボンと、長袖長ズボンの上下2着があります。ボタン穴、ベルト通しなど、洋服職人の面目躍如といえるものです。この洋服は、パゴの木の繊維を取るところから始めると、1着作るのに半年かかったといいますが、「服ができてからよりも、作っているときの方が幸せだった。」と、ものづくりの楽しさや毎日するべき仕事があるという生きがいの大切さを、横井さんが話してくれたことを忘れることができません。横井さんのくらしの道具は人が生きていく上で大切なことを教えてもくれます。
パゴの木から繊維を取ることは、現地の人々がパゴの木の繊維で南京袋のような袋を編むところを見たことがあるのだといいます。前述の鋳掛けといい、パゴの木の繊維といい、横井さんの記憶の良さとともに、それを現実のものにできたところに、横井さんの生きる力と、生き抜く努力を見る思いがします。
写真⑯⑰ エビやウナギなどを取る籠(ウケ)
戦時下では、兵士ばかりではなく、あらゆる市民が戦争と関わらざるを得ませんでした。当時の兵役、軍属や徴用、学徒動員や学童疎開など、年齢や性別に関わらず戦争と関わらざるを得なかった市民のようすを紹介します。
資源がない国であることが戦争の原因のひとつであり、同時に戦争の結果として深刻な資源不足にも見舞われました。戦時下の市民も、くらしのあらゆる面で物資が不足していました。物資不足を改善しようと国を挙げて取り組んだのが「代用品」です。戦争が終わっても、資源の不足はすぐには解消しませんでした。資源不足に対応しようと生み出されたさまざまな代用品を紹介します。
写真⑱ 戦中・戦後の代用品
■第二部は、展示室の中央の展示ケースで、横井庄一さんが発見された当時の新聞や雑誌などの一部を紹介します。横井さんの発見がいかに衝撃を与えたのかを振り返ります。
写真⑲ 橫井さんの発見・帰国を特集した週刊誌など(横井庄一記念館蔵)
■第三部は、展示室を取り囲む壁面に、満州事変から太平洋戦争まで、戦時下の愛知県内や名古屋市内に掲示されたポスター50枚を展示します。
第1次世界大戦以降の戦争は、前線で兵士だけが戦う戦争ではなくなりました。膨大な軍需物資を消費していく近代の戦争は、国の総力を挙げた戦争となりました。軍需物資の生産を優先するためには、生活のあらゆる面で、国民を戦争に誘導していかなければなりません。戦前・戦中に掲示されたポスターを通して当時の世相を読み取ってください。
写真⑳ 「欲しがりません勝つまでは 大政翼賛会」ポスター
写真㉑ 「進め一億火の玉だ 大政翼賛会」ポスター
昭和19年8月から縁故疎開する翌年3月まで、愛知県丹羽郡岩倉町(現岩倉市)へ集団疎開した名古屋市八重国民学校(現名城小学校)5年生児童の一人が記した日記の一部を読みます。
写真㉒㉓ 学童疎開日記(一)表紙(左)と昭和19年9月30日本文「大宮島で全員戦死…」