展示

  • NIPPONパノラマ大紀行 吉田初三郎の描いた大正・昭和

特別展「NIPPONパノラマ大紀行」

展示構成

展示内容

プロローグ さあ、レトロな日本の空旅へ

 鳥になって空高く飛び立てば、おそらく目の前にはこのような景色が広がるのではないのでしょうか。歩く旅から鉄路の旅へ、イメージで描かれた空中からのまなざしが、近代の鉄道旅行に対応した携帯に便利なガイドとなりました。

名古屋市鳥瞰図(昭和12年)

名古屋市鳥瞰図
昭和12年(1937)  名古屋汎太平洋平和博覧会事務局発行 内題同じ 吉田初三郎作 縦17.8×横76.5

 この年の3月に名古屋汎太平洋平和博覧会の開催にあわせて作成され、博覧会の来場者に配布された鳥瞰図。前年11月に発行された鳥瞰図をもとに臨港地帯の博覧会場を大きく詳しく描く。新しい名古屋駅、建築中の愛知県庁舎、開園間近の東山公園などが新しく加わり、戦前名古屋がもっとも繁栄した時代を記録している

第1章 伸びる鉄路とバーズアイ -Bird's Eye- の旅行案内

1)日本の鉄道 開業から50年

 日本の鉄道は、明治5年(1872)旧暦9月12日(新暦では10月14日)に新橋 - 横浜(現・桜木町駅の位置)間で開業したのを皮切りに、明治22年(1889)東海道線が神戸まで全通し、明治39年(1906)には総延長が五千マイルを越えた記念式典が名古屋で開催されました。その後、大正10年(1921)に鉄道開業50年を迎え、これを記念して全国の鉄道を網羅した「鉄道旅行案内」が出版されました。挿絵を描いたのは京都出身の吉田初三郎であり、1年半で40刷以上を重ねる好評によって、観光鳥瞰図の第一人者となりました。まず最初に、この「鉄道旅行案内」に至るまでの鉄道50年の様子を概観します。

2)観光鳥瞰図のはじまり

 鉄道の路線図に周囲の景観や観光地を鳥瞰図で描く吉田初三郎の旅行案内は、京阪電車に依頼された大正2年(1913)「京阪電車御案内」に始まります。絵葉書ではまだカラー印刷が一般的ではない時代でありながら、携帯に便利な折本からパノラミックな多色刷景観が広がる初三郎の鳥瞰図は、この後、東京・関東周辺や近畿・瀬戸内海周辺の著名な観光地で相次いで発行されていきました。大正8年頃には本格的に活動拠点を東京へ移し、活躍の場は広がりましたが、大正12年(1923)9月の関東大震災で灰燼に帰しました。震災後、愛知県へ拠点を移すまでに制作された観光鳥瞰図の初期作品を紹介します。

京阪電車御案内(大正2年)

京阪電車御案内
大正2年(1913)  京阪電車発行 内題なし 吉田初三郎作 縦13.1×横76.0

 吉田初三郎が最初に手がけた電車路線の沿線案内図。淀川に沿って京都・五条と大阪・天満橋間を結ぶ京阪本線の駅名を表示するとともに、沿線の簡単な景観と見どころを描く。後の鳥瞰図の出発点となった。この後大正4年(1915)10月27日、京阪本線の五条―三条間が延伸開業した。

第2章 飛躍ー犬山・日本ラインを新たなる拠点として

1)観光社蘇江画室での鳥瞰図制作

 大正12年(1923)9月1日の関東大震災で東京での活動拠点を失った初三郎は、その年の春から名古屋鉄道の招待で犬山を訪れていた縁で、犬山にあった同社所有の建物「蘇江(そこう)倶楽部」を仮画室として利用することになりました。ここには新たに観光社出版部が設立され、大正13年以後「名古屋市外犬山町日本ライン蘇江」を同社の住所表記として昭和11年まで活動しました。昭和4年には近くの旅館へ画室を移転させましたが、初三郎の代表作とされる数多くの鳥瞰図がこの蘇江で制作されました。まずは、地元愛知県を描く鳥瞰図を紹介します。

日本ライン御案内 日本八景木曽川(昭和3年)

日本ライン御案内 日本八景木曽川
昭和3年(1928)7月15日 犬山町役場発行 内題「日本第一の河川美日本ライン探勝交通案内図」吉田初三郎作 縦18.9×横75.1

 犬山町の依頼により作成。木曽川から濃尾平野・名古屋方面を望む構図で、日本ラインと犬山城の景観を強調して描く。昭和2年、毎日新聞社主催の日本八景選定イベントで、日本ラインは川の部第1位となった。日本ラインの名称は大正の初め頃、日本の山岳や渓谷を賛美した岡崎出身の地理学者、志賀重昴(しげたか)(矧川(しんせん)と号す)が、渓流を抜けた木曽川畔に犬山城が建つ景色をヨーロッパのライン川になぞらえたことによる。

2)初名会と鳥瞰図研究

 本展の中核をなす小川コレクションは、一宮市出身の故小川文太郎氏(1898~1985)の収集による鳥瞰図コレクションです。同氏は昭和の初期から戦後に至るまで名古屋や一宮の電話局に勤務するかたわら、昭和3年、養老へ旅行した折に初三郎の鳥瞰図を入手したことをきっかけに鳥瞰図に魅せられ、以後生涯をかけて鳥瞰図の収集・研究にあたった人です。
 吉田初三郎が主宰する観光社の広報誌や全国各地の地方紙の細かな記事にも注意を向け、詳細な収集記録を残して鳥瞰図の全体像に迫ろうとしました。また昭和5年には初三郎の名古屋ファンクラブともいうべき「初名会」を結成し、コレクターの親睦と情報交換の場として活動しています。
 戦時中当時居住していた名古屋市街地への空襲が激しくなると、収集品を出身地である一宮市内に疎開させ、戦後は昭和49年から60年まで5回にわたってコレクションの展覧会を自ら開催しました。この展覧会は今でも鳥瞰図研究の貴重な一里塚となっています。同氏のコレクションは観光鳥瞰図がもっとも盛んに制作された昭和前期において、その刊行と同時並行で網羅的に収集されたコレクションであり、また戦災を免れた研究資料としても貴重です。ここでは小川文太郎氏による鳥瞰図研究の様子を紹介します。

第3章 列島縦断・日本パノラマ大紀行

 小川文太郎コレクションより、吉田初三郎およびその弟子たちが大正から昭和前期にかけて制作した鳥瞰図の中から主だった作品を地域別に紹介し、今から100~75年前の日本各地の姿を空から見つめます。ご覧いただく皆さん一人一人にとっての「ふるさと日本」を再発見していただくきっかけとなれば幸いです。

1)行楽・探勝の足をのばして-東海

 愛知県に隣り合う岐阜・三重・静岡県域には、長良川鵜飼や伊勢神宮、富士山など、日本各地から人々が訪れる場所が数多くあります。鉄道の開通をきっかけとして、以前に増して観光客が訪れるようになり、回遊性が高まりました。

養老電鉄沿線名所図絵(昭和3年)

養老電鉄沿線名所図絵
昭和3年(1928)4月5日 養老鉄道発行 内題同じ 吉田初三郎作 縦19.5×横52.6

 デフォルメされた養老の滝が圧倒的な存在感を示し、見る者に強烈な印象を与える。養老山系には春の桜と秋の紅葉が同時に描かれ、桑名 - 大垣間を一直線に走るかのように見える鉄道が確実な交通手段として旅行者を導く。

2)鉄路は歴史と伝統の社寺へ-近畿

 京都・奈良など古くからの歴史が息づく近畿地方には多くの社寺や史蹟・名所があります。これらは歴史と伝統に触れる観光地として昔も今も人々が訪れる場所となっています。そうした背景から鳥瞰図も多種多様なものが制作されています。

奈良電気沿線名所図絵(昭和3年)

奈良電気沿線名所図絵
昭和3年(1928)9月25日 奈良電気鉄道発行 内題「奈良電車沿線を中心とせる鳥瞰図絵」吉田初三郎作 縦18.9×横75.4

 京都 - 西大寺間の奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)と橿原・天理方面へ伸びる鉄道(当時は大阪電気軌道が経営)沿線を描く。社寺の多い奈良盆地でも橿原神宮や春日大社、東大寺などはとりわけ大きく描かれ、その存在感を示す。毎年山焼きをおこなう三笠山(若草山)も緑が鮮やかである。大阪電気軌道は昭和19年(1944)近畿日本鉄道となり、奈良電気鉄道は昭和38年(1963)近鉄に合併した。

3)日本の多島海を結ぶ-中国・四国

 中国地方と四国の間に広がる瀬戸内海は古くから海運が発達し、鉄道網が整備されるまで長く船が人や物の輸送に活躍していました。京阪神から九州方面への航路も発達し、観光の隆盛に大きな役割を果たしました。

瀬戸内海遊覧図絵(大正9年)

瀬戸内海遊覧図絵
大正9年(1920) 大阪商船発行 内題「瀬戸内海航路絵図」吉田初三郎作 縦25.6×横107.7

 瀬戸内海各地を結ぶ大阪商船の航路を路線別に色分けしてわかりやすく示す。左上隅には、紀州航路の先に富士山を描く。大正年間は四国や東九州ではまだ鉄道が未整備で船舶が重要な交通手段であった。大阪商船は大阪・神戸を拠点に瀬戸内海沿岸各地や紀州・高知まで広く航路を営業し、貨客輸送に大きな役割を果たしていた。

4)火山のけむりと湯のけむり-九州

 九州には活火山がいくつかあり、今でも時折噴火することがあります。それと同時に火山の恵みでもある温泉が発達し、観光名所として長い歴史を保っています。

別府温泉遊覧案内(大正15年)

別府温泉遊覧案内
大正15年(1926)10月 別府市役所発行 内題「泉都別府市を中心とせる名勝交通図」吉田初三郎作 縦18.4×横75.5

 別府温泉の景観を海側から描く。市内あちこちの温泉や地獄では白い湯けむりが上がる。市内で亀の井ホテルを経営する油屋熊八は遠来の客へのサービスとして地獄めぐりや耶馬溪観光のための遊覧バス事業や自動車観光事業もおこなった。別府には神戸・大阪をはじめ、瀬戸内海沿岸各所と大阪商船などの船便で結ばれていた。はるか遠くの阿蘇山でも噴煙があがる。

5)行楽は郊外電車に乗って-関東

 首都圏の東京・横浜近郊では住宅地の拡がりとともに、郊外電車が発達しました。平日には通勤・通学に、休日には郊外への行楽や都心への買い物にと、電車を活かした都市文化が次第に広まっていきました。

小田原急行鉄道沿線名所案内(昭和2年)

小田原急行鉄道沿線名所案内
昭和2年(1927)  小田原急行鉄道発行 内題「小田原急行鉄道沿線名所図絵」吉田初三郎作 縦19.3×横76.0

 同年4月1日開通の現・小田急電鉄小田原線の沿線を描く。同社は新宿 - 小田原間を部分開業させることなく、全線を一気に開業させた。第二期予定線として藤沢まで分岐する地点は大野信号所(現・相模大野)。ここから片瀬江ノ島までの江ノ島線は2年後の昭和4年(1929)4月1日に開業し、さらに昭和16年(1941)社名を現在の小田急電鉄とした。富士山を背景に、首都圏近郊の鉄道沿線風景を描く。

6)日本の屋根から水の恵み-甲信越・北陸

 日本の中央に位置する甲信越・北陸地方には多くの高山があり、冬にはたくさんの降雪があります。この豊かな水の恵みを活かして水力発電が発達しました。

木曽川と大同電力(昭和12年)

木曽川と大同電力
昭和12年(1937)12月20日 大同電力発行 内題「木曽川と大同電力鳥瞰図」吉田初三郎作 縦18.7×横75.2

 木曽川水系の貯水池および水力発電ダムを描く。大同電力は木曽川水系で発電した電力を関西・中部地区に供給していた戦前の会社。設立には元名古屋電灯社長の福澤桃介がかかわった。昭和14年(1939)、電力を国家管理するための電力管理法によって日本発送電に統合された。戦後は木曽川の水利権とともに、関西電力の施設となっている。

7)北の大地はフロンティア-北海道・東北

 北海道は近代になってから、開拓が進められました。また東北地方では、豊かな自然に恵まれて人々を引き付けています。

小樽(昭和6年)

小樽 Bird's Eye View OF OTARU
昭和6年(1931)  小樽市商工会議所発行 内題「小樽市鳥瞰図」吉田初三郎作 縦19.1×横75.2

 小樽港上空から市街地方面を描く。内港設備として大正末に整備された運河と倉庫群は現在も一部が保存され、観光スポットとなっている。港の右手、かつて貨物駅のあった手宮には石炭積み出し用の高架桟橋も描かれ、北海道の玄関として小樽港の活気あふれる様子が伝わってくる。

8)沿線案内図いろいろ

 吉田初三郎の弟子だった人やそれ以外の人々が制作した鳥瞰図による鉄道の沿線案内図をいくつか紹介します。

終章 国際観光へのかけはし

最後に、吉田初三郎が昭和前期に日本観光の国際化へも取り組んでいた様子を紹介してしめくくります。

美の国日本ポスター(昭和5年)

Beautiful Japan(美の国日本)ポスター
昭和5年(1930)  ジャパンツーリストビューロー発行 吉田初三郎作 縦92.3×横59.6

 鉄道省が海外での宣伝用に2万枚を制作配布。富士山を背景に桜下で駕籠に乗る女性を描いた。

コラム 旅行の楽しみ

 館蔵資料より汽車茶瓶、トランクとステッカー、切符、時刻表、絵葉書など、鉄道や観光旅行に関連する資料をいくつか紹介します。