「尾張名古屋埋枡之図」と幅下水道
令和4年(2022)10月26日(水曜)~12月18日(日曜)
江戸時代、名古屋城下のうち、堀川の西側一帯は井戸水の質が悪く、飲料水の確保が課題でした。このため二代藩主光友の代に、勝川(現在の庄内川)から名古屋城の御深井堀までの「御用水」を開設し、さらに城内および城下西部へ通水する上水設備が整えられました。この上水部分を「幅下水道」と呼びます。
当館では近年、この幅下水道の詳細な図を収集しました。この図面はこれまで知られていなかった、具体的な管理の状況を記したもので、当時のライフラインがどのように維持されていたのかを知る好資料です。今回はこれらを通して近世名古屋城下の水道施設の実態を紹介します。
寛文3年(1652)に開設された「御用水」と、翌年敷設された「幅下水道」のようすを紹介します。幹線部分を「大樋」、そこから枝分かれした部分を「小樋」、更に家々など末端へ配水する部分を「孫樋」と呼んでいました。明治になり近代上水道が普及するまで、大切な生活用水でした。
近年見つかった、幅下水道の幹線部分である「大樋」の管理記録です。巻子の画面を上下に分割し、下半分に南北方向の樋、上半分に東西方向の樋を描写し、それぞれの結節点を合印[あいじるし]で示すことで広がりを示すことを可能にしています。所々に貼られた付箋から、いつどこの修理をして部材を取り換えたかなど、文政年間から約40年間にわたる水道管理の様相が分かります。
尾張名古屋埋枡之図(北)の一部
「埋枡之図」3巻はそれぞれ幅下水道敷設範囲の北・中央・南部に分けて記されています。合印や、橋などのランドマークを合わせていくと、3巻で幅下水道幹線全体のすがたを復元することができます。ここでは図の全体像をパネルで復元したうえで、パズルのように一部組み合わせできるよう再現します。