展示

常設展フリールーム

天下人と清須

令和3年2月23日(火曜・祝)から3月21日(日曜)

 清須は、古くは尾張守護代であった織田家のうち織田大和守家の拠点でしたが、応仁・文明の乱に伴う国内の騒乱により守護所の機能をもつようになりました。以後名古屋開府まで約150年近く、尾張国の中心は清須でした。この時代は東海地域が日本史の表舞台となり、天下人と称される人たちが当地域を縦横に駆け巡った時代でもあります。
 そんな尾張の中心地・清須は、それぞれの天下人にとって支配の重要な足がかりとなりました。この展示では特に3人の天下人、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代に、それぞれの政権が清須という町とどのような関わりを持ったのかを紹介します。

信長と清須

 大和守家の家老である織田弾正忠家の信長により清須は奪取されました。この後清須は尾張支配権を得た信長が美濃へ、畿内へと進出していく重要な足掛かりとなるのです。信長の後はその嫡男・信忠が尾張支配を担い、清須はその拠点となっています。

「清須会議」

 本能寺の変の直後、信長の遺臣が集結したのは、安土でも岐阜でもなく清須でした。織田家の後継者・遺領配分について談合するにあたり、かつての本拠地・尾張清須に集結するのは自然な流れだったのでしょう。この談合の成果は秀吉によって喧伝され、会合自体も後世に「清須会議」として名を残すことになります。

秀吉と清須

 天正12年の小牧・長久手の戦い以降、尾張の支配を担った織田信雄は、「豊臣大名化」しつつも尾張国内の統治に力を入れました。特に、急速に進んだ清須の都市化や災害、統一政権による知行制への対応に特筆すべきものがあります。
 天正18年の小田原合戦後、信雄の後には秀吉の甥・秀次が入り、尾張は豊臣直轄領となりました。秀吉は翌年に三河での鷹狩を企画すると、それに合わせて奥州攻め帰路の秀次と清須で落ち合い、関白職を譲り豊臣家の代替わりの場としました。秀次は在京しながら尾張の支配にあたり、失脚後は福島正則が清須に入りました。出身が清須に近い正則は、寺社の保護政策を積極的に行っています。

清須で使われた枡で計った米を年貢に収めるよう指示した古文書

立置寺内之事(不破源六定)
天正15年(1587)11月29日  館蔵

豊臣秀吉が清須の町に出した定め書き。

豊臣秀吉条々
天正18年(1590)8月27日 名古屋市秀吉清正記念館蔵

家康と清須

 関ヶ原の合戦後、尾張国には家康の四男・松平忠吉が入り、事実上徳川政権の直轄領となりました。
織田家以来の在地家臣に加え、家康直属家臣や忠吉の旧領から移った家臣らが入り、清須城下はさらに拡大していきました。慶長12年(1607)の忠吉死後に入った家康九男・義直は幼少のため、実質上家康の支配下となります。
 その後名古屋城築城により、清須から名古屋への大規模な移転が行われ、清須の町は名古屋へ受け継がれてゆくのです。