展示

常設展フリールーム

描かれた宮宿

令和3年3月24日(水曜)から4月25日(日曜)

 東海道の宿場である宮宿(本来は熱田宿。熱田社があるために宮宿と通称。現名古屋市熱田区)は名所絵の画題として多くの浮世絵にとりあげられてきました。葛飾北斎(かつしかほくさい)や歌川広重(うたがわひろしげ)ら江戸在住の絵師たちが宮宿をどのように描いたのか、その傾向を探るとともに、熱田や名古屋といった地元の人々が捉えた宮宿の風景をもご紹介します。
 テーマ9「弥次喜多が見た宮宿」、テーマ10「伝西浜御殿杉戸絵」もあわせてご覧ください。

宮宿のビジュアルイメージ

 江戸時代の人々は、宮宿にどのようなイメージを抱いていたのだろうか。まず歌に詠まれた文学上の名所としては熱田社、夜寒里(よさむのさと)、松風里(まつかぜのさと)、呼続浜(よびつぎがはま)、星崎が知られる。一方、実際に訪れる名所としては、道中案内記や地誌がイメージの生成に大きく寄与していよう。それらをひもといてみると、挿絵には熱田社、七里の渡しの船着き場、断夫山(だんぷさん)、笠寺観音が取り上げられている。こうしたビジュアルイメージは、のちに浮世絵師たちが作図をしていく際の参考とされ、さらなる名所イメージの普及に影響した。

東海道シリーズの一図として

 浮世絵で宮宿が描かれるときは、ほとんどが「東海道五十三次」シリーズの一図である。シリーズならではの連続性に着目してみると、宮宿と次の桑名宿をどう描き分けるかという点が絵師にとっての課題となる。船着き場を描こうとすれば、どちらも隅櫓と鳥居があり、イメージが重複してしまうためだ。東海道シリーズの先駆者である北斎の場合、宮宿では「渡し船(と東浜御殿)」、桑名宿では「焼き蛤」を描くことが定番となっている。

帆船がゆきかう様子の絵

葛飾北斎「東海道五十三次 四十二 宮」
文化年間(1804-18)中期 館蔵

広重の宮宿イメージ 馬の塔

 歌川広重「東海道五拾三次之内」では、熱田神事と題して「馬の塔(うまのとう)」が描かれる。これは尾張・西三河地方にみられる祭礼習俗で、近隣の町村が馬を社寺に奉納するもの。「七里の渡し(船と東浜御殿、あるいは俯瞰した船着き場)」を描くのが定番となっていた宮宿で「馬の塔」を主題とすることが、いかに斬新であったか、北斎らの作例を見ればお分かりいただけるだろう。

鳥居と馬を走らせる男たちが描かれた絵

歌川広重「東海道五拾三次之内 宮 熱田神事」
天保6~7年(1835~36)頃 館蔵

広重の新たな宮宿イメージ

 天保8年(1837)の春から夏にかけて大旅行にでかけた広重は、江戸への帰途、桑名から船に乗って宮へ渡っている。この体験は彼に大きな影響を与え、以後、このときのスケッチを基として作画していくようになる。宮宿では船着き場を描くが、これはむしろ定番イメージに戻るものだ。しかし後年、「自らが目の当たりに眺望した景をそのままにうつすこと」を標榜する彼にしてみれば当然の方針転換であった。実際、単純に定番イメージ(船と東浜御殿を海上から見る、あるいは船着き場を俯瞰する)をなぞるのではなく、「船着き場から浜の鳥居越しに、新田がせりだした海を望む」という、実体験をふまえたイメージとなっている。

鳥居と船、旅人たちが描かれた絵

歌川広重「東海道五十三次之内 宮 熱田浜之鳥居」
天保(1830-44)末年 館蔵(尾崎久弥コレクション)

鳥居と船、複数の男女が描かれた絵

歌川広重「五十三次名所図会 四十二 宮」
安政2年(1855)館蔵(尾崎久弥コレクション)

受け継がれた広重の宮宿イメージ

 広重没後の文久3年(1863)、京へ上る十四代将軍徳川家茂の行列を、源頼朝に仮託して描いた浮世絵が多数出版された。そのうち「御上洛東海道(ごじょうらくとうかいどう)」と通称されるシリーズ(全162枚)では宮宿が3図あり、熱田社と一の鳥居、そして船着き場がとりあげられている。また、同じく将軍上洛にあたって出版された「末広東海道(すえひろとうかいどう)」シリーズ(全55枚)では宮宿は一図のみだが、やはり船着き場を描く。注目したいのは、どちらも浜の鳥居を大きく扱う点だ。縦長画面を活かすためであろうが、彼らは、広重が実体験から生み出した新たな宮宿のイメージをよく学んでいる。

鳥居と船、侍の行列が描かれた絵

二代目歌川国輝「末広五十三次 宮」
慶応元年(1865) 館蔵(尾崎久弥コレクション)

地元からみた宮宿

 地元(熱田や町続きの名古屋)の人々は、当然、船着き場だけでなく、地元ならではの豊かな情報を基に、さまざまな宮宿のイメージを残していてくれる。ここでは賑わいに富むまちの様子を描いた作品をみていこう。

左右に笹竹がたくさん飾られた道の絵

高力猿猴庵作・小田切春江転写『画本江崎春』
文化4年(1807)成立 館蔵

鳥居と船が描かれた絵

小田切春江『名区小景』
弘化4年(1847) 館蔵

移り変わる名所 七里の渡しから名古屋港へ

 旅への関心の高まりとともに「七里の渡し」は名所として認識されるようになった。しかし宮の浜は、遠浅で小型船しか入港できず、機能の限界を迎えていた。そのため明治40年(1907)、「熱田港(のちに名古屋港と改称)」が南に築港される。これに伴って、名所の舞台も移っていくのであった。

たくさんの船が停泊する港の写真

「熱田海岸」明治~大正(1910年代) 館蔵