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フリールーム

正木国民学校の疎開

 昭和20年(1945)の『学校日誌』には、終戦後の9月にふたりの児童があいついで亡くなり、それぞれ翌日遺骨と共に教員が名古屋に向かったことが記されています。不衛生な集団生活と慢性的な栄養不良の1年を過ごした末のことです。
 また『本校ヨリノ証明書綴』には、校長のいる名古屋の本校(校舎は昭和20年5月の大空襲で焼失)発行の個別面会や帰名(名古屋への一時帰宅)の許可証が多く含まれています。疎開児童との面会(接触)は厳しく制限されましたが、子を心配する親の希望は切実でした。面会許可の理由の中には、商用で近くに行く…、伊勢神宮に参拝する…、などの「ついで」に、というものもあります。用件と面会と、本当はどちらが「ついで」だったのでしょうか。帰名許可の理由に多いのは、児童の病気療養と親族の葬儀です。葬儀には空襲に伴う戦災死がいくつもみられます。

 今回は、こうした生々しい記録と証言をもとに、引き離された親子の往来に関心を寄せながら、正木国民学校の疎開の一面をご紹介します。なお疎開先の豊地小学校の5年生がこの歴史を学習し、皆で工夫して想像図を画きました。それらもあわせてご紹介します。

学校日誌と本校ヨリノ証明書綴 館蔵

学校日誌と本校ヨリノ証明書綴 館蔵

疎開本部で使われた豊地村の地図 館蔵

疎開本部で使われた豊地村の地図 館蔵

寮での食事の想像図 豊地小学校提供

寮での食事の想像図 豊地小学校提供