展示

フリールーム

なごやの発掘調査の歴史と見晴台

  • 平成26年10月21日(火)~11月30日(日)

 名古屋市南区にある見晴台考古資料館は、1979(昭和54)年の開館以来、見晴台遺跡のほか、市内の埋蔵文化財(遺跡)の発掘調査の実務を担当してきました。この間には極めて多くの調査成果が蓄積されましたが、その中には、それまでの常識を覆すよう大発見、尾張の歴史や文化の特徴をよく示す出土品など、重要な発見も数多くあります。こうした重要な出土資料とその意義を紹介するとともに、名古屋の発掘調査のあゆみをたどります。

新しい弥生時代像を描く

 近年、名古屋市内では、私たちに弥生時代像の見直しを迫る発見が相次いでいます。名古屋の地にくらした弥生時代の人たちは、想像以上に広い範囲の人たちと交流をもち、弥生文化の中でも大きな役割を果たしていたことがわかってきました。
 朝日遺跡出土の日本最古の銅鐸鋳型はその代表例です。銅鐸という弥生時代を代表する遺物が、その初期から名古屋付近で作られた可能性を示しています。日本全体の弥生時代像の見直しにつながるような大発見でした。
 堀越町遺跡出土の貨幣「貸泉」、高蔵遺跡出土の銅鏡片は、西日本を経由し中国からもたらされたとみられ、海外までつながる遠隔地との交流の存在を明らかにしました。

古代豪族・尾張氏のムラ?

 金山総合駅周辺での調査成果は、古墳時代から古代にかけて、この地に巨大集落があったことを物語っています。
 この付近では、古墳時代中ごろから大規模な集落が営まれるようになります。この集落では、日本で須恵器生産がはじまって間もないころに、この地方で焼かれた須恵器が多量に出土しました。
 古代になると、東日本では最古級の寺院である尾張元興寺が造営されました。役所の存在を示す硯なども出土しており、中央政権との関りの強さがうかがえます。
 最先端の文物を持ち、また中央政権との関連もうかがわせるこの巨大な集落は、すぐ南にある断夫山古墳を築いたと言われる古代豪族・尾張氏と重ね合わせることができるでしょう。

尾張徳川家の考古学

 名古屋城や城下町の発掘調査でも重要な発見がありました。
 名古屋城の一画には、尾張府下の鎮守を目的として、歴代将軍の霊を祀る御霊屋(霊廟)や東照宮などの将軍家関連の施設が設けられていました。名古屋城三の丸遺跡からはこの御霊屋を飾った瓦が見つかっています。徳川御三家であった尾張藩の特徴を示す重要資料であり、また、その立体的な造形や鮮やかな釉薬に、瓦製作者らの技術を垣間見ることができます。

 このほかにも縄文時代から昭和の時代におよぶ、数々の重要な発見を紹介します。身近にある遺跡から、重要な発見がある「驚き」をお伝えできればと思います。

高蔵遺跡 中国製の鏡

高蔵遺跡 中国製の鏡

名古屋城三の丸遺跡 御霊屋の瓦

名古屋城三の丸遺跡 御霊屋の瓦