展示

常設展フリールーム

教育勅語

令和3年6月23日(水曜)~令和3年8月23日(日曜)

 明治23年(1890)、明治天皇により「教育二関スル勅語」、いわゆる「教育勅語」が発布されました。国民教育の根本原理を、法令ではなく”勅語”(天皇の意思表明)という形式で国民に示したものです。

 維新後の日本が、特にイギリス等の強国に対して近代国家としての体裁を整備していかなければならなかったのが明治の前半期です。そのため世の中は、江戸時代以来の日本的な価値観と、積極的に導入した西洋的な価値観とが、なじまずに混乱していました。

 明治二十年代、憲法(大日本帝国憲法)の制定や国会(帝国議会)の開設を控え、この混迷の抜本的な解決をはかろうという機運が高まりました。文部省が、作り直しを含めた修正を何度も重ねながら素案を作り、そこに明治天皇の意見を取り入れて道徳理念として完成したのが「教育勅語」です。

 しかし勅語の理念は抽象的であるため、読んですぐ納得できる、というものではありません。したがって国民、特に児童生徒に対して現実には、学校での教育活動、特に「修身」(現在の「道徳」の授業)という解説作業を通じて当たっていくことになります。教科書等によって、勅語にある「忠」「孝」を初めとした道徳項目のそれぞれに、有名な人物や物語が当てはめられ、それを使って教師が解説する、という形です。

 この”わかりやすい例示”に何を選択するかは、国の置かれた状況や国家の意思等に応じて折々に替わったので、戦時には自然、道徳というより戦意を高揚させるような話題も登場しました。このように勅語自体は不変であっても、運用が臨機応変で自由であったために、先の大戦時には、教育勅語の名の下に局部的な強調や拡大解釈のような授業も行われたのです。

 その一方で、各学校には天皇の写真(いわゆる「御真影」)とともに教育勅語の謄本(全文を印刷した紙)が配布されていきました。するとそれらを汚損、ましてや滅失することの絶対に無いよう、学校は厳重な保管と厳格な運用の責任が求められることになりました。ついには、これらは命に代えてでも守らなくてはならない物品にまで高じてしまいました。勅語が物体として配置されたことが、その内容の過度な神聖化を促進することにもなったのです。

 また教育勅語が戦前に半世紀以上という長期間にわたって唯一原理であり続けたことで、先の大戦時には、日本国民の大半(還暦未満の人たち)が、幼少時から修身教育の価値観で育ちモラルを共有したかなり均質な集団になっていた、という点も、影響としては重要でしょう。

 この展示では、教育勅語の内容と、それに基づく修身教育が時勢によって変質したようすが知られる教科書などの資料、またやがて神聖視された勅語の保管用具などを陳列します。

教育勅語全文と、そこに示された道徳の各項目を図を使って例示したもの。

教育勅語図解 館蔵