展示

常設展テーマ10

小牧長久手の戦い

  • 4月29日(水祝)~5月31日(日)

 天正10年(1582)6月、本能寺において織田信長が討たれると、翌11年、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉は、柴田勝家を破って天下統一へと動き出します。しかし、これに立ちはだかったのは、信長次男の信雄(のぶかつ)と徳川家康でした。信長後継の地位をめぐって秀吉と対立した信雄が、秀吉の三河進入を食い止めたい家康と組んで始まったのが、小牧長久手の戦いです。

 天正12年(1584)3月に始まった戦いは、犬山城に秀吉、小牧山城に家康が陣取って、膠着(こうちゃく)状態となります。4月になると、家康の本拠を狙った秀吉軍の「三河中入(なかいり)作戦」が行われ、9日には、池田恒興(つねおき)、森長可(ながよし)、堀秀政らが長久手へと進出します。しかし、この作戦は家康に察知され、秀吉軍は大敗を喫し、池田恒興や森長可らが戦死してしまいます。

 「小牧長久手合戦図屏風」は、4月9日の戦闘を描いたもので、右から左へと侵攻する家康軍が秀吉軍を破る構成です。屏風の右端には、敗れた秀吉軍堀秀政隊の倒れる様子とともに戦いのあった岩作(やざこ)村が描かれているところが、その他の「長久手合戦図屏風」にない特徴で、初陣を飾った成瀬正成や先鋒を勤めた井伊直政など、家康軍が秀吉軍を破り進軍していく構図です。この屏風では、池田恒興を討ち取った永井伝八(永井直勝)が恒興の黒母衣(ぼろ)をはぎとって、首を包む姿を描く一方、犬山城白帝文庫本などにみられる、森長可が家康軍の鉄砲衆に眉間を打ち抜かれる有名な場面は省略されました。

 その森長可は、この作戦に向かうにあたり、遺言状を残しています。その内容に目を向けると、「母は京に住まわせてほしいこと」、「娘は京の町人に嫁いでほしいこと」、「自分の跡目を幼い弟に継がせず、秀吉の側で奉公させてほしいこと」などが記されています。過酷な戦国の世を生き抜いた森長可の遺言状には、家の繁栄よりも家族の無事を願う気持ちが綴られています。

 4月9日の戦いは家康の大勝利で終結しますが、その後、秀吉は尾張西部へと戦線を後退させつつ、信雄領の伊勢を攻撃し、以後、一進一退の攻防が続きます。そして、11月に入ると、秀吉は北伊勢へと進出して戦いを優位に進め、秀吉と信雄で和睦が成立し、長期に渡った戦いは終結を迎えます。小牧長久手の戦いは、秀吉の三河侵入を防いだ家康と、信雄に勝利して信長後継の地位を得た秀吉と、それぞれに意義があった戦いでした。

小牧長久手合戦図屏風 江戸時代中期

小牧長久手合戦図屏風 江戸時代中期

森長可遺言状 安土桃山時代

森長可遺言状 安土桃山時代