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常設展フリールーム

秀吉文書を読む

  • 4月29日(水祝)~5月31日(日)

 全国を統一した豊臣秀吉は、大量の文書(もんじょ)を出しました。現物・写しを含め、現在わかっている数は7000通ほどで、戦国武将の中でもとびぬけて数が残っています。内容は、家臣に土地を与えたもの、戦いの様子や指示を伝えたもの、秀吉に届けられた贈答品に対するお礼などがあります。文書とは、手紙や命令書などの総称で、秀吉を研究する出発点となるため、名古屋市博物館では全国の研究者と一緒に、すべての秀吉文書の活字化と編年に取り組んでいます。秀吉に限ったことではありませんが、手紙を書くときには一定のルールがあります。それらを確認しながら秀吉文書の変化を見てみましょう。

【秀吉の生まれ年】

 秀吉は天文6年(1537)生まれ、またはその前年生まれとされ、どちらにも根拠があります。ここでは天文6年生まれとして話を進めます。秀吉が出した文書は、永禄8年(1565)11月2日、秀吉29歳の文書が最初ですが、現物ではなく写された形で伝来しています。現物としては、永禄11年6月10日の連署状(秀吉清正記念館蔵)が最古です。

【名のりの変化】

 当時の人々が秀吉のことを、実名で「秀吉」と呼ぶことはなく、「藤吉郎」や「筑前守」の通称(官途名)で呼んでいます。多くの武士にも共通するように、秀吉もこの通称が変化します。はじめ木下藤吉郎と名のり、元亀4年(1573)7月から羽柴藤吉郎、天正3年(1575)7月から羽柴筑前守に変わります。その後ふたたび、羽柴藤吉郎、羽柴筑前守に変わるので複雑です。天正12年(1584)10月に筑前守を辞すので、筑前守は使いません。天正13年7月に関白になり、その頃から、花押のみ、朱印のみの文書になります。こうした変化は面倒でもありますが、年代を調べていくのに重要な手がかりとなります。

 と言うのは、領地を与えた文書や乱暴狼藉を禁止した文書には年号が書かれますが、ほとんどの文書には年号が書かれていないので、何年に出されたものなのか、内容や文書の形から割り出す作業をします。そのときに藤吉郎なのか、筑前守なのかによって大まかな年代推定が可能になります。

木下藤吉郎秀吉 元亀元年(1570)頃

1. 木下藤吉郎秀吉 元亀元年(1570)頃

名古屋市博物館蔵

月日のみで、年号は書かれていない。

【花押と朱印】

 次のポイントは、花押と朱印です。花押は筆書きのサインです。朱印は朱肉で押した判です。一般的に相手に対する礼が篤いのが花押で、低いのが朱印とされます。信長は朱印と黒印を使いましたが、秀吉は朱印だけを使っています。秀吉が朱印を使い始めるのが天正11年(1583)からで、本格的な使用は天正12年の小牧長久手の戦いの頃からです。したがって大まかに言って、花押が書かれていれば天正13年までの、朱印が押されていれば天正12年以後の可能性が高いのです。

1568年

1568年

1570年頃

1570年頃

1581年

1581年

1584年

1584年

朱印

朱印

【紙が大きくなる】

 年代判断のヒントは紙の大きさにもあります。秀吉は出世するにつれて紙が大きく厚くなります。博物館にある文書では、下表のようにサイズが変わっています。

  年 代 縦(センチ) 横(センチ)
元亀元年頃(1570) 27.3 43.5
天正13年(1585) 32.0 50.5
天正20年(1592) 43.8 65.8
文禄 4年(1595) 46.7 66.6

 1の横の長さが3の縦とほぼ同じです。同じ比率で表示し、1を90度回転させると、面積的には約2.5倍のサイズになっていることがわかります。出世するにつれ、だんだん紙のサイズが大きくなるのは秀吉の性格を反映しているのかもしれません。

1を回転させると…

1を回転させると…

3. 天正20年(1592) 朱印だけが押されている

3. 天正20年(1592) 朱印だけが押されている

【常設展示室でご覧ください】
 古文書が読めないので興味ないと思っている人が多いと思いますが、花押や紙の大きさの変化からもおもしろい発見があります。常設展のフリールームで秀吉文書がお待ちしています。