展示

フリールーム

秀吉と鷹狩り

  • 平成30年5月23日~6月24日

 鷹狩りとは、鷹に狩りをさせて、獲物である鳥類や小禽類を得る狩りの方法で、中世以降は武士の嗜みとしてひろく行われていました。戦国時代になると、鷹狩り用の猛禽類を始め、雁や白鳥といった鷹の獲物も贈答品として広く用いられ、武家社会のコミュニケーションツールとなりました。また、鷹狩りと称した領内巡見・軍事演習がされるようになったのもこの頃です。

 織田信長が鷹狩りを好んだことは有名ですが、豊臣秀吉にとっての鷹狩りはどのようなものだったのでしょうか。文化・政治・軍事の各方面にわたる重要な役割をもっていた秀吉の鷹狩りについて紹介します。

1 鷹狩りとは

 日本では古墳時代から確認される狩猟法で、古代では天皇や貴族などの野外娯楽として親しまれていました。中世以降は武士の間に広まり、娯楽としてだけでなく武芸鍛錬の役割も加わりました。長い伝統を持つことから故実も多く、それらを踏まえたうえで上質な鷹を入手し、鷹狩りを行うのが武士のステータスとなりました。

鷹の絵

「木曽産物」より へび鷹 江戸時代 館蔵

2 秀吉と鷹の出会い

 足軽の家に生まれた秀吉は、信長や家康と違い、幼少期から武家文化に親しんできたわけではありませんでした。鷹狩りへ強い関心を見せるのは、実は天正15年(1587)に九州を平定し、鷹の産地として有名な日向[ひゅうが]国を擁する島津氏を服属させてからです。秀吉は島津氏を鷹巣奉行[たかすぶぎょう]に任じ、他の家臣にも鷹の養育を命じるなど、積極的に質の良い鷹を求め始めました。

和紙の上半分に墨で字を書いた手紙の写真

豊臣秀吉朱印状 (天正16年)閏5月12日付 有馬刑部法印宛 館蔵

3 天正19年の「大鷹野」

 天正18年(1590)の小田原攻めで関東を平定し、尾張に甥の豊臣秀次を入れて直轄化した秀吉は、翌19年の夏頃から、尾張・三河で大規模な鷹狩りを開催する準備を始めました。11月中旬から三河の吉良を中心に大々的に催されたこの鷹狩りは「大鷹野[おおたかの]」と称されました。秀吉の帰洛の際には、鷹の獲物の鳥類を数万も携え、華美な装束で壮大な行列を行い、京の貴賤の耳目[じもく]を奪ったと当時の記録に記されています。

横に長く接いだ和紙に墨で書かれた手紙の写真

豊臣秀吉朱印状 (天正19年)12月1日付 稲葉兵庫頭他宛 館蔵(初公開)

4 「大鷹野」の意義

 当時関東に移封していた徳川家康は、「大鷹野の様子は如何[いかが]か」と何度も秀吉の鷹師に尋ねています(古文書集・書上古文書)。鷹狩り自体の軍事演習的な性格を考えると、秀吉は家康の旧領で大鷹野を開催することで、家康への牽制を狙っていたと思われます。

 また、秀吉は大鷹野に合わせ、東国から帰陣した秀次と清須で落ち合い、関白職を譲る訓戒をおこなったとされます。尾張は豊臣政権世襲の舞台となり、盛大な帰洛パレードには秀次も伴われました。秀吉は到着後直ちに、秀次の関白叙任の儀式を執り行いました。これら一連の流れは、全て秀吉によって予め計画されており、豊臣政権の権勢を印象づける重要な政治的パフォーマンスの目的があったのです。