展示

常設展フリールーム

絵葉書に見る戦前名古屋の風景

営業再開から6月21日(日曜)

 空襲で市街の大半が焼かれた名古屋では多くの建築が失われました。また戦後の復興・開発によって、各地の風景も大きく変わりました。名古屋の街と近郊の失われた風景を、絵葉書で遺された写真と絵とで紹介します。

展示替え内容の紹介

 戦後の高度経済成長で家庭にカメラが普及していく以前、特に戦前では、写真を自分で撮影してそのプリントを手に入れることは、まだ一般的ではありませんでした。そんな中、明治末期以降盛んに発行されていった絵葉書は、安価に入手でき、飾ったりコレクションしたりして楽しめる手軽な画像印刷物でした。

 名古屋の絵葉書は、発行された量で見れば、観光名所風景を紹介する商品が主流でした。また制作の動機で言えば、なんらかの宣伝や広報、記念などの目的で作られたものもたくさんありました。私製ハガキとして基本的には売り物でありながら、その画像は社会的にはしばしばニュース性を持ち合わせていました。社会の人々と関心を共有する、あるいはハガキとして知人に送ることで情報を共有できる媒体(ばいたい)、すなわちメディアでもあったのです。その意味では絵葉書の画像は、当時の人々にとって、個人の関心で撮影した写真・描いた絵といった作品とは異なり、新聞やグラフ雑誌といった紙メディアに掲載された画像と似たような性格を持つものでした。

 さて、名古屋の町は、明治末期から昭和にかけて「大きな城下町」から「重工業を中心とした大都市」へと発展していきました。それと歩調を合わせるかのように絵葉書も大流行していきます。戦前の名古屋では東京や大阪などと同様に、実に多種多様な絵葉書が数多く発行されましたが、このふくれあがっていく人口が、購買層として絵葉書の市場を支えていたのです。絵葉書の画像にも、次第に都市化していく街の様子がうかがえます。

 ところで、今の私たちが戦前の絵葉書の画像を見る時、その題材はごく普通の日常生活、暮らしではなく、むしろ当時人々の目を引いたもの・関心が向けられたものなどに絞られていることに注意する必要があります。どこでも見られる光景は、当然ながら、絵葉書では題材に採用されにくいものでした。他方で、写真映えする建築物、たとえば名古屋控訴院(現在の名古屋市市政資料館。国指定重要文化財)のようなレンガ造りの大規模で立派な西洋風建築であっても、生活とやや縁遠い施設などは絵葉書の題材には選ばれにくかったようです。つまり、戦前の絵葉書に見ることのできる風景は、その頃の名古屋の様子を網羅しているわけではなく、平凡ではないものや限定的なものの集まりではあります。しかし逆に、当時の人々が名古屋のどういった風景に魅力を感じ、どんな建築物に興味を持っていたのかを想像することができます。名古屋の絵葉書の画面には、それが発行された当時の人々の関心、時には街の誇りまでがこめられているのです。

 その、思いのこもった「場面」のほとんどを、徹底的な爆撃によって、名古屋市民はわずか半年のうちに奪われてしまいました。昭和20年(1945)、焼け野原にされる前の名古屋には確かにあった、この数多くの「おもかげ」。それらを、失われた建築物を核にして紹介します。

絵葉書。本丸御殿のうしろに天守が見える

写真①名古屋城天守と本丸御殿(「名古屋城拝観記念絵葉書」の一枚)
いずれも国宝でしたが、昭和20年(1945)5月14日の空襲で焼失しました。

絵葉書の裏。天守のイラストが描かれている

写真②名古屋城拝観記念絵葉書が入っていた袋
写真①の入っていた紙袋です。
「昭和二十年五月十四日午前九時頃 米機空襲ニヨリ焼失ス」
との書き込みがあります。

門の写真の絵葉書

写真③熱田神宮の鎮皇門(「熱田神宮絵葉書」の一枚)
国宝だった熱田神宮の西門です。昭和20年(1945)3月12日の空襲で焼失しました。

名古屋駅のイラストの絵葉書

写真④名古屋駅ビル(「名古屋汎太平洋平和博覧会絵葉書」の一枚)
昭和20年(1945)3月19日の空襲で炎上しましたが、コンクリート造りのビル建築だったので、
内部を修復してさらに約半世紀にもわたって使われ続けました。