展示

フリールーム

ええじゃないか150年

  • 平成29年9月27日(水)~10月22日(日)

 いまから150年前の慶応3年(1867)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)へ伊勢神宮のお札が降り、二夜三日の祭礼が行われました。人々はお札降りを神仏の出現ととらえて祭礼を行います。お札降りが連続するとお祭りも連続し、日常生活が麻痺する熱狂的な騒ぎへ発展します。これが幕末に流行した「ええじゃないか」です。

 全国に伝播した「ええじゃないか」ですが、名古屋へは8月末に伝わり11月まで続きました。名古屋では、お札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行います。町奉行で集計されたお札は三千枚を超え、いかに「ええじゃないか」の騒ぎが大きかったかがうかがえます。加えて、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は七日七夜にわたり、降札による祭礼の連続、祭礼の長期化が城下を祝祭空間に変えてしまったのです(図1)。

 こうしてみると「ええじゃないか」は、お札降りを口実に人々が勝手に遊びくるったようなイメージをもつかもしれません。しかし、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は、地域の伝統的な祭礼のルールのもとで行いました。名古屋城下茶屋町をみてみると、町で管理する屋根神の中へ「ええじゃないか」のお札を納め、関係の寺社へとお礼参りをして「ええじゃないか」の一連の行事は終了しました。

 では、少しですが「ええじゃないか」の祭礼の様子をのぞいてみましょう。図2の左部分は、熱田伝馬町の遊女が出した馬の塔です。馬の塔は、飾り付けた馬を寺社に奉納する祭礼習俗で、本式の飾りで厳格な秩序のもとに行われる本馬(ほんうま)と自由な演出を楽しむ俄馬(にわかうま)の二種類が存在します。「ええじゃないか」の遊女の馬の塔は後者で、片肌脱いだ裸参りの出で立ちで髪型も男同様に剃ってしまう大胆なものでした。しかし、この演出の背景には髪が元に戻るまで客による金銭の保証があり、日常生活を意識したうえでの演出だったのです。

 こうした祭礼への女性の参加は「ええじゃないか」の特徴とされることが多いのですが、実は「ええじゃないか」に限ったものではありません。江戸時代、伊勢神宮のお札が降ることで、約六十年周期で伊勢参宮が大流行したおかげまいりでも、通常旅に出ることのない女性や子供の参加が目立ちますし、お札降りを契機として日常生活から抜け出しての参宮が流行する点は「ええじゃないか」にも共通しています。

 図2の右部分は、「ええじゃないか」で奉納された日用品一式の神馬の造り物です。頭を杵、たてがみをササラ、胴体はザル、蹄は黒椀などで構成しています。このような見立ての造り物は、江戸時代後期のお鍬祭り(おくわまつり)にも登場しました。おかげまいり同様六十年周期で、伊勢外宮や伊雑宮(いざわのみや)から伝わる鍬神を村から村へとパレードして継ぎ送り流行したお鍬祭りですが、東枇杷島では、杓子やザルで見立てた獅子をともなう太神楽が確認できます(図3)。

 どうやら「ええじゃないか」はおかげまいりやお鍬祭りの影響を受けたことは間違いないようです。人々は江戸時代に流行したこれらの祭礼や流行現象を「ええじゃないか」祭礼にたくみに取り入れて、あたかも江戸時代の祭礼の集大成かのような熱狂を生み出しました。今回の展示では、江戸時代の名古屋で流行した祭礼などともに「ええじゃないか」の熱狂を紹介します。

手前から奥に続く大通りが群衆であふれかえっていて、その両側の軒先にちょうちんをつけた笹竹が立ち並んでいる様子を描いた絵。

図1 『青窓紀聞』 名古屋市蓬左文庫蔵

右ページに杵やお椀などの日用品で作られた神馬、左ページに片肌を脱いだ女性たちが一頭の馬をひきだしている様子を描いた本。

図2 『青窓紀聞』 名古屋市蓬左文庫蔵

頭がザルやしゃもじでできた獅子舞と笛や太鼓を演奏する人々を描いた絵。

図3 『御鍬祭真景図略』 館蔵