展示

常設展フリールーム

中国・日本歴代銅鏡

令和2年10月28日(水曜)から12月6日(日曜)

 当館では、中国の春秋・戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)~明・清代(みんしんだい)、および日本の古墳時代~江戸時代の青銅鏡を多数所蔵・受託しており、その総数は500枚以上にのぼります。今回の展示では、この充実したコレクションの一部を公開し、中国・日本における歴代の銅鏡の変遷を通史的にご覧いただきます。また、両国の文化的関係の深さにも思いをめぐらせてみてください。

中国鏡の歴史概観

 中国最初の銅鏡は、新石器時代に中国北西部の甘粛省(かんしゅくしょう)・青海省(せいかいしょう)一帯の斉家文化(せいかぶんか)(紀元前2400~紀元前1900 年)で用いられた地方的なものでしたが、その後、商代・周代に王朝のもとで製作されました。それらは簡単な幾何学文様のものや、文様のないもので、数量もそれほど多くありません。
 春秋・戦国時代から本格的にさまざまな銅鏡が多量に作られるようになりました。そのデザインは中国古代における宇宙観・世界観を表現したものでした。漢代になると、その伝統を踏まえつつ、この時代に流行した神仙思想・道教の神々や仙界の表現を取り入れた図像が中心となります。長期政権と広大な領土を実現した本格的な統一王朝である漢王朝のもとで、高度な技術と洗練されたデザイン、大規模な生産量が達成され、銅鏡文化は最高潮に達しました。かつての漢王朝を凌ぐ巨大な世界帝国として繁栄した隋(ずい)・唐(とう)王朝では、吉祥(きっしょう)や繁栄を象徴する華やかなデザインの銅鏡が流行し、シルクロードからもたらされた外来の文様も採用されて、新たな銅鏡様式を生み出しました。宋代(そうだい)以降は、原料物資の不足などを背景として品質は低下しましたが、学問や思想の発達の影響と日常用品としての需要を受けて、復古的デザインや吉祥文様の銅鏡、実用重視の無文の銅鏡などが多量に生産され、当時発達した東アジア海上貿易のルートに乗って、日本や朝鮮半島など各地に流通しました。

鏡の写真

方格規矩四神鏡 館蔵(松本コレクション)

 中国漢代の代表的な鏡。円形の天空世界とその四方の守護神、方形の大地、天地を支える柱と綱の留め具であるT・L・V字状の文様を表し、中国古来の思想的宇宙観を表現しています。

鏡の写真

海獣葡萄鏡 館蔵(松本コレクション)

 中国唐代に愛好された鏡。文様は、葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)と獣(けもの)を組み合わせています。西アジアから中国に伝わった文様を用い、外来文化を反映した華やかなデザインです。

鏡の写真

波濤船舶八稜鏡 館蔵(松本コレクション)

 中国宋・金代と朝鮮半島の高麗を代表する鏡。荒れる波間を航行する一艘の船を描いています。また、上部に大きく明るく輝く太陽を意味する「煌丕昌天(こうひしょうてん)」の文字を表しています。

日本の銅鏡

 日本では、弥生時代~古墳時代に中国の漢・三国・南北朝で生産された漢鏡(かんきょう)を入手していましたが、古墳時代には中国鏡の入手と平行して、それらの模倣から独自化した倭鏡(わきょう)を生み出しました。さらに古墳時代終末期(飛鳥時代)から平安時代には遣唐使や日宋貿易によって、唐王朝・宋王朝の中国鏡が大量にもたらされ、日本国内ではそれらのコピー生産、さらに日本独自の「和鏡」(わきょう)が成立しました。和鏡は、その工芸技術とデザインが発達するにしたがって、海上貿易を通じて、中国・朝鮮半島をはじめ東アジア各地に流通し珍重されました。
 中国の明王朝で柄鏡が創出されると、まもなく中世の日本でも柄鏡(えかがみ)が作られるようになりました。日本では銅鏡は貴族や武士など有力者のもつ品物でしたが、次第に民間でも流行するようになり、江戸時代には一般庶民にまで銅鏡が浸透しました。

鏡の写真

獣形鏡 岐阜県御嵩町 館蔵

 中国漢代の鏡の模倣から成立した、日本の古墳時代の鏡。変形した獣の文様を表しています。

鏡の写真

三角縁神獣鏡 奈良市都祁白石町 光伝寺後方の古墳 館蔵

 鏡の縁の断面が三角形で、文様に神と獣の像を表しています。邪馬台国の卑弥呼が中国三国時代の魏王朝から与えられた鏡という説と、古墳時代の日本で作られた鏡という説が対立しています。

銅鏡からみた中国と日本

 しかし、単なる中国文化の受容にとどまらず、日本独自の和鏡が成立すると中国をはじめ東アジア各地に流通し愛好されました。同時に、その間にも中国文化に由来する文様が和鏡に表されるなど、新たな影響もみられます。長い歴史における交流の中で、銅鏡においては中・日両国の文化が融合を遂げたといえるでしょう。