展示

常設展フリールーム

朝日遺跡 弥生の大集落遺跡

令和3年4月28日(水曜)から6月20日(日曜)

 朝日遺跡は、愛知県清須市から名古屋市西区にまたがる東西1.4 ㎞、南北0.8 ㎞の範囲に広がる弥生時代の遺跡である。もともと、二反地貝塚(にたんちかいづか)や貝殻山貝塚といった独立した貝塚と考えられていたが、調査の進展により、ひとつの巨大な集落であることがわかり、朝日遺跡と名付けられた。集落の周りをめぐる堀(環濠(かんごう))や防御用の杭などから全国的にも著名な遺跡となっている。この展示では、数多く行われた調査の中でも初期に行われた二反地貝塚の出土品をまとめて初公開するほか、朝日遺跡の歴史を紹介する。

はじまりのムラ

 弥生時代前期(紀元前6~前4世紀頃)の集落は、直径150mほどの環濠に囲まれた比較的小規模なものであった。二反地貝塚出土資料は、この地域の考古学者・久永春男らが行った1964年の調査等で出土したもので、これらの資料から弥生時代の前期から中期にわたる土器編年が提示された。
 出土する土器は、特に弥生時代の初めの頃は、西日本の文化の影響を受けたものがほとんどである。一方、この集落の周辺では、縄文的な影響を残した土器も出土している。そして、時期が経つにつれ、この二つの文化は混合していく。

弥生時代の7点の土器

二反地貝塚出土資料のうち土器 弥生時代 館蔵

骨や角で作られた、かんざし、銛、やじりなど

二反地貝塚出土資料のうち骨角器など 弥生時代 館蔵

集落の発展

 弥生時代中期(紀元前4世紀~前1世紀頃)には、朝日遺跡の集落は大きく発展した。谷地形を挟んで南北に居住域ができ、幾重もの環濠に取り囲まれた。人々は竪穴住居で暮らし、石の道具や時には金属製の道具を使い、稲作や畑作、また、漁や狩りをした。銅鐸の鋳型や玉作りの道具も出土し、専門的な工人も住んでいたと考えられる。

集落の衰退

 弥生時代後期(紀元1世紀~3世紀頃)の朝日遺跡は、集落の構造は変わりながらも、大量のパレススタイル土器が出土するなど、この地域の中核的な集落であり続けた。しかし、弥生時代末期には環濠に大量の土器が打ち捨てられ集落は衰退した。
 古墳時代には、小規模な古墳が造られ、埴輪や須恵器が出土している。徐々に湿地が広がったようで、人々の活動の痕跡は少なくなっていく。

朝日遺跡と名古屋市博物館

 忘れ去られた朝日遺跡は、昭和初期に遺跡として調査されるようになった。
 昭和40 年代以降に名古屋環状2 号線や集合住宅造営に伴う大規模な発掘調査が行われるようになり、弥生時代の環濠や多数の住居跡や墓などが発見され集落の様子が詳細にわかるようになった。その重要性から、出土品の一部が国の重要文化財に指定され、現在あいち朝日遺跡ミュージアムで保管・展示されている。今回の展示ではその一部を紹介する。
 一方、名古屋市博物館が所蔵する考古資料は、こうした行政による発掘調査以前に、郷土史家や考古学者の努力により、資料や記録が残されたものである。これらは、弥生時代を中心とする歴史を知ることができる歴史資料であることはもちろん、各地点でどういったものが出土したかを記録した標本であり、近代における遺跡の発見と調査の歴史を語る資料としても意味を持つのである。

白と緑色が混ざった石で作られた勾玉

勾玉 弥生時代 館蔵(小栗鉄次郎コレクション)