展示

常設展フリールーム

有松・鳴海絞り アフリカへ行く

令和元年7月24日(水曜)~8月25日(日曜)

 有松・鳴海地域では、昭和11年(1936)ごろと23年(1948)ごろの2回、アフリカへ絞りの輸出を行なっています。昭和11年、絞り製品の新しい販路を求めて外国へと目を向けていたところ、当時神戸にあったガーバー商会という外資系商社によって、アフリカへ輸出することとなりました。この輸出は順調に発展していきましたが、戦争の情勢悪化に伴い、1年ほどで中断することとなりました。そして終戦後の昭和23年、再びガーバー商会とアフリカへの輸出を再開し、現在のコンゴ民主共和国へ25年ごろまで輸出し続けました。今回の展示では、昭和23年のアフリカ輸出時に使われていた絞り製品の見本をその当時を知る方からお借りして、当時のお話とともにご紹介します。

 アフリカへ輸出する絞り製品は日本の反物より幅広で、現地の人が腰布などに使用するものでした。現地の人は藍染めを特に好んでいたそうです。染色の仕方は、藍一色で絞り染めしたもの、藍染めに色を加えて絞り染めしたもの(写真)、型染めと絞り染めが混ざっているものなどがみられます。生地は木綿で、光沢のあるサテンが好評だったといいます。絞り染めの技法でみると、縫い絞りや巻き上げ絞りなどが多く、細かい模様が特徴の鹿の子絞りはみられません。現地では大柄な模様が好まれていたようです。

あいぞめにオレンジの色の入った、アフリカへ輸出されたありまつ・なるみしぼり

アフリカへ輸出された有松・鳴海絞り(部分) 個人蔵

 「死んだような有松の町が、これで一気に活気づきましてね」。
 有松で絞り屋を営んでいるある方は当時の様子をそうお話してくださいました。戦争が激しくなるにしたがって絞り業者は転業や廃業を余儀なくされ、技術保存のためのわずかな仕事しか行なえなくなっていました。終戦を迎え、すっかり縮小した絞り産業の中で始まったアフリカへの輸出。「もう大人から子どもからおばあちゃんからおじいちゃんから全員が、顔から手から鼻から真っ黒にしましてね」。藍染めの布を扱うため手や鼻や顔に藍がついてしまうほどだった、と当時の活気ある有松の様子をお話してくださいました。アフリカへの輸出は、絞りの町有松がよみがえる大きな出来事だったのです。
 現在も変わらず美しく可憐な模様でわたしたちを魅了してくれる有松・鳴海絞り。その美しさは、戦争という時代の大きな変化で苦しみ、それを乗り越えて守り伝えられてきました。このアフリカへの輸出絞り製品はそんな一時代を物語る貴重な資料といえるでしょう。