コレクション

豊臣家文書 激動の時代の証人

豊臣家由来の多くの古文書が並んだ写真

 令和4年(2022)、館蔵資料に新たな国指定重要文化財「豊臣家文書」67点が加わった。これらは豊臣秀吉を関白とする任命書、豊臣家関係者の自筆の手紙など、豊臣家が栄華を極める時期を語る資料群であり、秀吉の妻・北政所(高台院)の実兄・木下家定を初代藩主とする足守<あしもり>藩(現在の岡山県岡山市北区足守)木下家に伝来した。昭和56年(1981)から57年にかけて木下家の蔵から発見されて話題となり、令和元年(2019)に国指定重要文化財に指定された。豊臣政権の内実をものがたる第一級の資料群である。

 豊臣家文書でまず特筆されるのが、秀吉に従一位を与えた位記<いき>や関白に任じた宣旨<せんじ>など、秀吉の叙任関係文書14通である。これらは、秀吉が生涯受け取った膨大な数の文書の中で、最も重要なものといってよい。天正10年(1582)10月3日から同13年7月11日までの2年9ヶ月の間に発給された14通もの任官文書がずらりと並び、一見非常に事務的な印象を与える。しかしこれらの文書こそが、無冠から関白まで上り詰めるドラマティックな道程を語る唯一無二の証人なのである。

灰色の紙に書かれた、天皇から秀吉に与えられた文書〈もんじょ〉

<写真1>口宣案(従五位下) 天正10年(1582)10月3日付

 順に見ていこう。まず、従五位<じゅごい>下少将に叙された天正10年10月の口宣案<くぜんあん>(写真1)は、秀吉が武家としての官位を初めて正式に与えられたものとして、記念碑的な意味を持つ。当時一般的に武士が朝廷から官位を与えられる際は、従五位下が出発点だからである。

 ただし、実は秀吉は、この時確かに正親町<おおぎまち>天皇から従五位下少将の推任を受けたが、辞退したことが他の同時代資料で分かっている。さらに、小牧長久手の戦いが終盤となった天正12年10月、天皇は秀吉を四位<しい>参議に叙する意を示したが、秀吉の望みで「五位少将」となった。従って天正11年6月22日付で従四位下参議の叙任を告げる口宣案等が残るが、実はこの日付ではない。これら天正10年・11年の口宣案は、天正12年11月22日、秀吉が従三位<じゅさんみ>大納言に叙任された際に、日付をさかのぼり作成されたとみられている。秀吉は同年11月15日に織田信雄〈のぶかつ〉と講和して半年に及ぶ小牧・長久手の戦いを終結させたばかりであり、この時点で正親町天皇は秀吉の覇権を認識したものとみることができる。

 この後の動向が実に興味深い。秀吉は翌年の天正13年2月、織田信雄を正三位〈しょうさんみ〉にするよう天皇に求めて信雄に大納言の職を譲り、自らは翌月3月10日に正二位内大臣となる(写真2)。前年の講和以後、表向きは対等であった信雄との関係を、官位任官の過程で明らかに凌駕したことをアピールするものである。

天皇から秀吉に与えられた文書〈もんじょ〉

<写真2>宣旨(平秀吉 内大臣) 天正13年(1585)3月10日付

 秀吉の勢いは止まらない。秀吉の内大臣任官後の五月、秀吉の叙任で内大臣から右大臣となった近衛信輔〈のぶすけ〉と、同じく右大臣から左大臣となった二条昭実〈あきざね〉の間で、今度は「秀吉が左大臣を望んだ」ことに端を発し、どちらが関白になるかという相論が勃発した。これを聞いた秀吉は、自分が関白になることで相論を調停する案を提示した。信輔から「関白職は藤原氏を宗家とする五摂家以外は受けられない」旨を聞いた秀吉は、摂家筆頭である近衛家の猶子〈ゆうし〉となって関白を請ける旨を提案。秀吉の案に異論は上がらず、7月11日に秀吉は「藤原秀吉」として内大臣から関白となった(写真3)。この時、関白に相応する位階として従一位が与えられた(写真4)。

天皇から秀吉に与えられた文書〈もんじょ〉

<写真3>宣旨(内大臣 関白) 天正13年(1585)7月11日付

天皇印が3か所捺された秀吉宛の文書〈もんじょ〉

<写真4>位記(藤原秀吉 従一位) 天正13年7月11日付

 同日付で関白職に付随する各種の特権・役割を認める宣旨が合わせて出された。これらの宣旨は、作成者に宛て、一通につき砂金一袋(=十両)を支給されたことが分かっている。

 豊臣家文書には、秀吉の甥で後継者とされた豊臣秀次の関白任官文書類も14通含まれている。権大納言任官から約一か月という、秀吉を上回る圧倒的な速さでの関白補任は、秀吉の権勢を阻むものが何もなくなっていることを示している。

 この他、豊臣家文書には秀吉直筆の金銀出納帳、朝鮮出兵における明国使節との和親交渉に関する文書などが25通ある。また、北政所の手元にあった文書として、秀吉が北政所に一万石の所領を与えた知行目録(写真5)や、甥や徳川秀忠から北政所宛てに送られた書状などが該当し、これらは12通となる。

秀吉が北政所に与えた文書〈もんじょ〉

<写真5>豊臣秀吉朱印状 天正20年(1592)3月23日付 北政所宛

 そのほか、木下家定五男で秀吉の養子となった小早川秀秋のもとにあった文書として、秀秋宛の秀吉朱印状と関ヶ原の戦いにおいて秀秋が示した「御忠節」をたたえた徳川家康書状などがある。

 このように、「豊臣家文書」は激動の時代の主役となった秀吉と豊臣家の人々の生き様を明らかにするものである。豊臣秀吉は、その生涯と事績が半ば伝説化しており(本人が生前から意図的に虚飾したことも要因だが)、実在の為政者にも関わらず、さまざまなイメージ像が先行しているため、史実はそれに埋没しがちである。そして古文書という歴史資料自体も、関連文書との相互関係や背景の検討で、大きく意味づけが異なってくる。このような検討を経ることで、初めてより実態に近い秀吉像をつかむことができるのではないだろうか。「豊臣家文書」は激動の時代の証人であり、その価値が認められて重要文化財の指定を受けたが、その研究はまだ端緒についたばかりである。新たな秀吉のすがたが、これから明らかになってくるであろう。

(岡村弘子)

豊臣家文書 67通 重要文化財(507-11)

安土桃山時代~江戸時代前期 館蔵

※本資料は常設展示しておりません。