コレクション

井戸桶板[いどおけいた]

井戸底で幕末と現代の職人をつなぐ

井戸桶板3枚 名古屋市東区片端石町出土 弘化4年(1847)5月

 地下水をくみ上げる掘り抜き井戸は、近代の上水道が敷設されるまで、庶民の生活に身近なライフラインであった。名古屋城下の主要部である碁盤割を中心とした地域が名古屋台地上に位置しており、台地とその縁辺部では掘り抜き井戸により生活用水を確保することができた。近世後期の地誌「名古屋府城志」には、城下の町毎に井戸の水質評価が記されているが、これによると概ね台地上の町は「佳(とても良いこと)」であることから、水質には恵まれていたと思われる。
 ところで、時代劇などでも「井戸端会議」の舞台となる井戸の周辺は、上屋が設けられたり釣瓶[つるべ]が備えてあったり、生活感あふれる空間のイメージを持つことができるが、井戸の内部はどうなっていたのだろうか。

桶用の木材3枚

写真 井戸桶板

井戸の断面図

図 井戸断面模式図

 当資料は、名古屋城の東側、元武家屋敷にあった掘り抜き井戸の最深部から見つかった、井戸桶の最下層部分の一部である。通常の桶の底を抜いて逆さにした状態で、3段重ねて井戸底に設置されていた。井戸掘り職人であった名古屋市千種区在住の旧蔵者が、昭和40年代にこの井戸を埋める依頼を受けた際、最下層のみ地下水に漬かって残存していた桶板を抜き取り、保存していた。桶材の状態の良さと、木口[こぐち](側面)に墨書が見られたためだという。旧蔵者は、「抜き取ってすぐはもっと字がよく見えた」と話すが、桶板を設置した期日や職人の名、「親方」などの文字が、現在でも読み取れる。墨書は桶の製作途中に記されたとみられるため、当時は井戸掘り職人が桶枠作りにも直接携わっていたのだろう。桶が完成すると小口の文字は解体するまで全く見えなくなる。板の下端部は地盤に埋設しやすくするため鋭角に薄く整えられており、外面には数条の竹箍[たが]の痕跡がみられる。
 旧蔵者いわく、井戸掘り職人は井戸に関わるほぼ全ての技術を持っていたという。掘削から桶枠や地上部の石積み枠作り、井戸内面の仕上げや防水処理までである。ただこの桶枠は「なかなか見ない良い出来」だったと話す。職人たちは地域毎で「縄張り」があり、それぞれが自分の地域の地質状況を熟知して仕事をしていた。旧蔵者から聞き取ったこの井戸の構造は右図の通りで、最深部まで15mほどあったという。崩落防止に補強された上部と、湧出した地下水を溜める桶枠との間は地盤が露出したままで、飛沫等で削られ「ママ」と呼ばれる空間を形成する。「ママ」は直径数mにも及ぶ場合があったという。
 昭和30年頃から、上水道の普及と共に、冷房等による地下水利用が増大して地下水位が低下したこともあり、井戸の利用が激減した。「その頃は井戸掘り職人なのに井戸を埋める仕事ばっかりやっとったよ。」と旧蔵者は話した。廃井戸にも作法があり、内部を綺麗に浚った後、清浄な砂等を入れて埋めたという。桶材の小口に記された文字は、廃井戸に携わる井戸職人しか目にすることができない。井戸掘り職人の仕事ぶりは廃井戸の際に如実にわかるといい、旧蔵者はこの桶材からそれを感じたのかもしれない。幕末と現代、それぞれの職人の仕事が重なる、興味深い資料である。

(岡村 弘子)

写真上より

  • ① 長102.0×幅14.0㎝ 最大厚4.0cm
     墨書「弘化四未五月吉日 井堀喜左衛門 新助 文七 佐兵衛 新六 喜平」
  • ② 長101.0×幅15.0㎝ 最大厚5.2cm 墨書「[   ]金次郎 弐人 背六尺五寸宛有」
  • ③ 長101.0×幅19.0㎝ 最大厚5.0cm 墨書「[     ]親方[   ]」

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。