コレクション

日露戦争時の軍隊宿泊日記

出征兵士の宿舎となった伊藤次郎左衛門家

 明治37年(1904)に始まった日露戦争では、約100万人もの軍人・軍属が戦地へ動員された。動員された兵士は各地の師団(しだん)所在地に集められ、出征(しゅっせい)の日を待ったが、軍の施設だけでは収容しきれず、民間施設も宿舎として利用された。
 第三師団の所在地である名古屋では、江戸時代以来の大店(おおだな)である呉服商・伊藤次郎左衛門(いとうじろうざえもん)の屋敷が宿舎の一つに選ばれた。伊藤家には明治37年(1904)6月~8月と、同年12月~翌年1月の2度にわたり、計35名の兵士が滞在した。
 当館が所蔵する「伊藤次郎左衛門家資料」のなかには、このときの記録である「軍隊宿泊日記」と、後日兵士たちが伊藤家に送った手紙が残されている。

和紙でつづられた帳簿

軍隊宿泊日記(伊藤次郎左衛門家資料より) 表紙

忘れられないビールの味

 日記の冒頭にある支出一覧をみると、伊藤家のもてなしの様子がよくわかる。それによれば兵士の宿泊にかかる伊藤家の負担は、国から支給された計200円程度の宿泊代を差し引いても、合計で約900円にのぼった。これは現在の価値に換算すると、低く見積もっても300万~500万円ほどにはなる※。伊藤家の意気込みがうかがえるが、見方を変えれば出征する兵士の歓待(かんたい)は、地域社会が資産家に求める役割の一つであったのかもしれない。
 支出の内容も興味深い。ビールなどの酒類に始まり、ホテルに注文した洋食、料亭・河文(かわぶん)や魚半(うおはん)の料理まで、豪勢な食事が大きな比重を占めているのである。日記を見ると、1回目の宿泊の最終日には河文から料理人を呼んで酒宴が催され、餞別(せんべつ)には国旗と洋酒、「勝男武士」(かつおぶし)が手渡された。また、2回目の宿泊の最終日には伊藤家主人みずから、大須の料亭・八千久(やちく)に芸者を呼んで将校たちをもてなした。
 兵士たちにとって、伊藤家でのもてなしは忘れがたい記憶になったようである。ある軍曹(ぐんそう)は出征後に伊藤家に送った手紙で「御馳走(ごちそう)に預(あずか)り身体肥満、飽食」であったが、今は狭苦しい船中でその「年貢(ねんぐ)」を支払っていると述べ、「船中の暑気に貴家において頂たる氷冷しのビールを思出し、口唾を呑(の)」んでいると記した。

日記が記された帳簿を開いた状態

軍隊宿泊日記 明治37年8月13日条
餞別として「国旗」「洋酒」「勝男武士」が贈られた(左頁5行目以降)

日記を記した帳簿を開いた状態

軍隊宿泊日記 明治38年1月24日条
将校接待の記事。左頁の左から3行目に「芸妓 四人」とある。

鉛筆書きの郵便はがき

兵士からの手紙 明治37年8月22日付
左から3行目に「氷冷しノヒール(ビール)ヲ思出し」とある。

戦場に国旗を翻(ひるがえ)す

 伊藤家と出征した兵士をつなぐものは「ビールの味」だけではなかった。ある兵士は伊藤家への手紙に「貴家御寄贈(ごきぞう)の国旗○○○山頂に翻(ひるがえ)るも近きに在るものと信じ候」(○○○は伏せ字)と記した。先ほどの「ビール」の軍曹も「貴家御寄贈の国旗を○○○山頂に翻す時も来れり」と勇ましく記している。餞別の国旗は兵士と伊藤家をつなぐ重要なシンボルとして機能したのである。
 そのあとに続く「乞(こ)ふ、刮目(かつもく)して新聞を見賜(みたま)へ」という一文も興味深い。銃後の人々は新聞で逐一戦況の推移を知り、軍事郵便を読むことで、そこに具体的で身近な個人の姿を重ね合わせることができた。そうした環境に置かれていることを、兵士たち自身も強く意識していたのである。日露戦争はメディアの働きが大きな意味を持つ、新たな時代の戦争でもあった。

過酷な戦場への動員

 勇ましく出征した兵士たちであったが、現実の戦場は過酷であった。陸軍の統計によれば、日露戦争で亡くなった日本軍の死者は約8万5千人とされる。第三師団に限っても死者は4千人を超える。確認はできていないが、伊藤家に宿泊した35人の兵士のなかに、戦死者・戦病死者がいたとしても何ら不思議はない。
 伊藤家に残された軍事郵便には、日露戦争最初の大規模会戦である遼陽(りょうよう)会戦直後、明治37年9月6日に出された手紙もある。遼陽会戦では日本軍・ロシア軍ともに2万人を超える死傷者を出す激しい戦いが繰り広げられた。手紙には行軍の過程が意外なほど詳しく記されるものの、さすがに戦闘の具体的な様子までは記されていない。

軍事郵便専用の便せん、赤いインクで軍事郵便と印刷されている、鉛筆書き

軍事郵便専用の便せん、赤いインクで軍事郵便と印刷されている、鉛筆書き

軍事郵便 明治37年9月6日付
軍事郵便専用の便せんを使用。宛先住所の欄には「大日本帝国」と印字されている。

 伊藤家に残された資料から過酷な戦場の実態を直接うかがうことは難しい。だが、軍隊宿泊日記と手紙から読み取れる伊藤家と兵士たちのすがたは、そうした過酷な戦場への動員と直接結びついていた。これらの資料は、戦争を下支えした地域社会の一面を伝える資料として読み解かれる必要があるといえる。

(木村慎平)

※白米10キロの小売価格が明治37年の東京で約1円22銭(「日本長期統計総覧」による)、令和4年で約4千円~5千円程度とした場合の概算。なお、巡査や教員の初任給で比較すると、当時の900円は現在の1800万円程度となる。

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。