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東谷山古墳群・東谷山3号噴出土品  尾張最大規模の群集墳のはじまり

守山区 東谷山古墳群(とうごくさんこふんぐん)とは?

 東谷山は名古屋市東端、瀬戸市との境に位置する標高198.3 mの山である。その山頂から西麓には古墳時代前期から後期の古墳が点在する。4世紀の尾張戸神社古墳(おわりべじんじゃこふん)、中社古墳(なかやしろこふん)、南社古墳(みなみやしろ)、白鳥塚古墳(しらとりづかこふん)や5世紀の志段味大塚古墳(しだみおおつかこふん)など、そして6~7世紀の白鳥古墳群などが、「志段味古墳群」として一括して国史跡に指定され、古墳の歴史を体験できる「歴史の里 志段味古墳群」として保存・活用されている。
 東谷山古墳群は、その一画、山頂から続く傾斜が緩やかになる標高100m~60mの斜面に分布する主として横穴式石室を埋葬施設とする後期古墳の総称である。

東谷山3号墳出土品

 東谷山古墳群の多くの古墳は開墾などのために削平され、原形をとどめるものは少ない。このうち、東谷山3号墳は、古くから石室上部の盛土が流失し、天井石が露出していたことから「ストーンテーブル」と地元で呼ばれていた。しかし、昭和38 年(1963) の宅地造成にともない消滅し、現在石材は東谷山山頂の駐車場脇に移設されている。
 古墳は、東西23m 、南北21.5m の円墳とされる。横穴式石室は、調査前に削り取られ、奥壁から5m ほどの部分が残るのみであった。
 石室内からは須恵器の坏蓋(つきふた)、坏身(つきみ)、高坏、器台などや、耳環(じかん)、水晶製切子玉、碧玉(へきぎょく)製管玉、土製丸玉、ガラス小玉など、多種多様で豊富な資料が出土している。
 須恵器は石室内外での祭祀などに使用されたものである。水晶製切子玉は、一連で耳環の側から出土したため首飾りと推定されている。また、奥壁石積みの背後から鉄製U字形刃先が出土しており、古墳築造時に儀礼的におさめられたのであろう。
 さらに、墳丘周囲から須恵質の円筒埴輪と朝顔形埴輪が出土している。埴輪はいわゆる尾張型埴輪と呼ばれる5~6世紀の尾張特有の埴輪で、熱田区断夫山古墳(だんぷさんこふん)や守山区瓢箪山古墳(ひょうたんやまこふん)などでも出土するものである。
 東谷山3号墳は、埴輪や須恵器の型式から、東谷山古墳群の横穴式石室としては最も古い6世紀前葉の古墳であると判断できる。さらに、東谷山から出土したとされる素環頭大刀(そかんとうたち)は3号墳ないし同時期の9号墳から出土した可能性が想定され、豊富な出土品や尾張型埴輪の採用など、小規模な首長墳であるといっても過言ではない。当古墳群の初期を語る重要な古墳である。

群集墳としての東谷山古墳群

 東谷山3号墳や実態が不明ながら初期の須恵器が出土している9号墳など、6世紀前葉の古墳を端緒として、8世紀までの約200年にわたり中小規模の古墳が東谷山西麓に築造された。その総数は白鳥古墳群なども含めると50基を超え、尾張地域最大の規模である。こうした、中小規模の古墳が一定の範囲に集まった古墳群を「群集墳」と呼んでいる。古墳時代中期に出現し、多くは後期に発展する。
 群集墳の成立は、古墳に葬られる階層の広がりを示すものであり、こうした人々が古墳という社会的・文化的装置に組み込まれた歴史を示すものと考えられている。東谷山古墳群にも、こうした新しく勃興してきたいくつかの集団の人びとが葬られているのであり、東谷山3号墳の出土品はその端緒を示す重要な資料群である。

(瀬川貴文)

※本資料の一部は常設展テーマ3「古墳とその時代」に展示しています。

多くの焼き物、鉄製のすき先、玉類、埴輪の破片

写真1 東谷山3号墳出土品

つつがたのやきもの

写真2 器台(東谷山9号墳出土)

東谷山古墳群

写真3 東谷山古墳群