コレクション

張州府志

開いた本1冊と閉じた本2冊

張州府志

見開きの地図

張州府志巻第四熱田志

 尾張藩が編纂した尾張国の地誌の第一号。形態は中国歴代王朝が編纂した地誌に倣い、記述は漢文である。ちなみに尾張国を「張州」と呼ぶのも中国風である。

 巻一から三の名古屋城下にあたる「府城志」にはじまり、「熱田志」、「清洲志」「津島志」の城下と三つの町志、尾張八郡の各郡志が並び30巻25冊の構成である。各志ごとに、位置、歴史、町村の位置、名勝、役所、山川・津陵、人口、税収、産物、人物、神社、仏閣、陵墓、古城、古戦場、名家宅趾、古蹟などに分けて記述され、神社は延喜式神名帳に、寺院は、古記録に記載された寺社に限っている。

 尾張藩による尾張国の地誌編纂が最初に計画されたのは17世紀末三代藩主綱誠(つななり)の治世である。元禄11年(1698)寺社奉行横井時庸を総奉行に深田正室、天野信景(さだかげ)はじめ12名に対して「尾張風土記」の編纂が命じられた。この計画は、翌年の綱誠の急逝により中断、未完の草稿だけが残された

 ふたたび藩撰地誌編纂に着手されたのは、18世紀半ば、八代藩主宗勝の治世である。当時の学界の中心であり、書物奉行も勤めた松平君山に編纂を命じ、君山の弟子にあたる千村伯斎を事業全般を掌握する総裁に置いた。編纂は、君山を中心に多くの弟子たちとともに進められ、未完となった「尾張風土記」の草稿をもとにするとともに、多くの書や衆説をあつめ、さらに領内各地を廻り、現地調査も行われた。本書の内容の正確さは、後世に亘り高く評価されている。

 完成し清書された本書は、藩主の元に届けられた。藩主の手元蔵書として尾張藩の御側御文庫に納められ、藩士であっても許可を得なければ見ることができない「秘書」に分類されて幕末を迎えた。この清書本は、城下図、各郡図、古城図などが「附録」として1冊にまとめられ、『張州府志』全26冊として、尾張徳川家の文庫の蔵書を受け継ぐ「蓬左文庫」に現在も所蔵されている。

 一方、当館が所蔵するこの『張州府志』は、清書本とは内容はもちろん、各項目の文字を大きくした体裁までそっくりな同等もしくはそれ以上の善本である。構成上の大きな違いは、絵図の扱いで、当館の『張州府志』に絵図だけを納めた「附録」はないが、各志および各寺社編の巻頭に清書本の「附録」1冊に収録されたのと同じ絵図が分けて収録されている(註1)。献上された清書本以上という点は、編者松平君山自筆の序をもつことである。清書本の序はあくまでこの編者の序からの清書なのである。金泥の下絵のある豪華な題箋の文字も明らかに君山の自筆であり、さらに本書は清書本より、縦が4㎝横が1㎝大きい(註2)。本書は、『張州府志』清書本作成に向けて制作された原本ともいうべき『張州府志』なのである。

 では、この『張州府志』はどのような経緯をたどって現在にいたったのであろうか。清書本の献納後、この原本に匹敵する『張州府志』は、松平君山のもとに所蔵されたと推定される。君山の蔵書は、天保年間(1830~44)に藩に納められ、御側御文庫の蔵書となった。江戸後期成立と推定される『御側御文庫蔵書目録 君山本』は御側御文庫に納められた君山の旧蔵書の目録である。この中に『張州府志』25冊の記述がある。つまり、尾張藩の御側御文庫には2件の『張州府志』があったはずである。現在、尾張藩の蔵書を伝える蓬左文庫、徳川林政史研究所、徳川美術館に存在する明らかに尾張徳川家伝来の『張州府志』は蓬左文庫が所蔵する清書本26冊のみである。

 尾張徳川家は、明治8年、幕末の激動期を主導した第14代藩主慶勝が17代を再相続した後、高松松平家から養子となった義礼が第18代当主となるが、その後生まれた慶勝の11男義恕は、明治21年6月に分家して男爵となった。この分家に対し、尾張徳川家は義直以来の伝来の品々を分譲しており、「目録 男爵家へ御分譲品」が残されている。この内の書籍之部に『張州府志』25冊が記録されている。平成10年(1998)前後、男爵家の代替わりに際し、この分譲品のいくつかが博物館などの所蔵となっている。蓬左文庫も平成11年、この目録に記載された2代藩主光友の蔵書『礼記纂言12冊』を古書市場から購入している。ちなみに当館の『張州府志』25冊の購入は平成10年である。『御側御文庫蔵書目録 君山本』と「目録 男爵家へ御分譲品」に記載された『張州府志』25冊が同一である確証はない。ただし、当館所蔵となった『張州府志』25冊が男爵家に分譲された尾張徳川家の旧蔵書である可能性は高いのである。

(桐原千文)

(註1・2)

現在蓬左文庫が所蔵する清書本は、製本後に何らかの理由で改装され整えられたため全体に完成当初よりちいさくなっているものと推定される。また、現在附録1冊となっている絵図についても、図の割り付けなど本来は本書と同様に各冊に収録されていた痕跡があり、改装により「附録」1冊にまとめられたものと考えられる。


宝暦2年(1752)序 袋綴 冊子本(3,411丁) 全25冊 縦29.0 横20.5

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。