コレクション

出征した兵士からの便り―帰れなかった父が手紙にほどこした工夫―

「フィリピンで戦死したらしいとしか…」

 寄贈者の父、故安藤保太郎氏は昭和18年(1943)12月、二度目の召集を受けてフィリピンに出征し、結局家族の元には戻れませんでした。戦地から、まだ幼いこどもたち宛には読みやすいようカタカナで書くなど、家族に向けてたくさんのはがきを出した保太郎氏でしたが、やがて消息が途絶え、その後は終戦を過ぎても家族には国から何の情報も入ってきませんでした。ようやく戦後2、3年ほどたってから戦死と見なされ、公報が来たそうです。資料の寄贈者で保太郎氏の長男の嘉且氏は「小学生の時出迎えた白木の箱にはなんにも入っていなかったよ」と話してくれました。


 紹介する資料は、保太郎氏の妻で寄贈者の母でもある故つる氏が、亡夫である保太郎氏の遺品として大切に仏壇に保管してきた手紙類(以後「通信」とします)です。封書も数点ありますが、数の上では戦地からの軍事郵便はがきが多数を占めています。

 当時日本軍では、所属部隊の現在地・日時・移動などに関わる情報は全て軍の機密(軍機)とされており、所属する兵士はたとえ留守家族にであっても一切漏らしてはなりませんでした。また機密漏洩阻止のため、戦地からの軍事郵便はがきには上官による検閲までありました。すでに一度中国への出征経験があった保太郎氏は、何が軍機に触れる情報であるか十分理解していたはずです。しかし保太郎氏の通信の調査を進めていくと、保太郎氏は自分(すなわち部隊)の現在地に関する情報を、それが憚られるべき内容であることを承知の上で、目立たぬように工夫して妻のつる氏に知らせる努力をしていたことがわかってきました。


 フィリピンの戦地から出された軍事郵便はがきには当然ながら日付が全く無く(軍事郵便には消印も無い)、寄贈された時点でそれぞれのはがき相互の時間的な前後関係は全くわからない状態でした。そこで次のヒントを手がかりにいくつかのグループに分ける作業から始めました。①内容(特に季節に関する記述)②部隊名の変更③検閲者の交代④「検閲済」欄の印のインクの色の違い⑤保太郎氏のペンのインクの色の違い⑥ペンの字の太さの違い⑦使われた軍事郵便はがき自体の種類の違い⑧自宅住所の所属区の変更(昭和区→瑞穂区。昭和19年2月)、などです。これらを組み合わせて28通あるはがきをいくつかの新旧グループに分けることはできました。しかし、やはり個別のはがきの前後順ははとんど判明しないままです。そこでいったん、軍事郵便はがきより前の時点で書かれた通信に目を通しました。

 その結果保太郎氏は入隊以後、軍事郵便しか方法が無い戦地に向かっている途中の段階で、通信の差出人部分を工夫することで、一見、出征兵士から自宅への通信らしくない、なにげない日常のやりとりの通信を装っていることがわかってきました。例えば①差出人住所を自宅住所でなく妻つる氏の実家に変えたもの(はがき)②つる氏の実家住所を使うだけでなく、つる氏の名前も使ったもの(はがき)③苗字も書かず「保子」と女性をよそおった名前だけで書いたもの(封書)などがあります。特にこの「保子」名の、輸送船乗船待機中に福岡県門司から出された封書では、部隊の出発予定時刻など軍機に触れる内容がいくつも書かれているだけでなく「度々御通信と思へども何事も絶体ならぬとのきつい命令故御許し下さい 今晩人の寝た間に早速一通差出しました この手紙を人に見せてはいけません」とも記されています。

 翌昭和19年1月末、フィリピンでの任地到着直後にも一通だけ、密かに外出時に封書を出しています(中の便箋は書きかけ途中。封書では最後のもの)。この中身は、保太郎氏が門司出港→台湾高雄港→フィリピンマニラ港→セブ島→ミンダナオ島と部隊がいつどう移動したかまで読めてしまう内容で、全くの軍機を書いてしまっています。


 このように、違反を承知の上でなんとか家族に自分についての情報を伝えようとする保太郎氏の努力を知ると、その後の軍事郵便はがきしか出せない状況になっても、もしかすると何かしらの工夫がなされているのではないか、と思えてきました。しかしはがき裏面の本文はどれもさすがに、検閲に引っかからないような当たり障りのない表現で終始しています。日付も無く、また地名ほか軍機に少しでも触れるような文言は「〇〇〇」と伏せられています。

保太郎氏は昭和19年9月10日までは生きていた

 ところがふと一通だけ混じった、保太郎氏からのものではない軍事郵便はがきを見ていて、妙なことに気づきました。フィリピン到着後に保太郎氏の上官(堀内部隊長)から部下の留守家族に宛てて個別に出された、無事任地安着を知らせるはがきです。その宛先住所の末尾の番地は「八四」です。またフィリピンから密かに出した最後の封書に保太郎氏自身が書いた番地も同じ「八四」です。ところが保太郎氏からのその後の軍事郵便はがきでは、番地はなぜかどれも「八四」ではないのです(番地を書かなかったものもあり)。

 そこで保太郎氏からの全ての軍事郵便はがきの”番地”数字を再確認すると、「一二六」「二一」「二二」「二三」「三一」「三一五」「三一八」「四一」「四二八」「五二〇」「六三」「九九」そして「九一〇」となっています。また改めてよく見ると、一つ目の数字の下(原文は縦書です)に小さな点が書いてあったり、次の数字との間に大きめのすき間が空けてあったりします。あ、これは日付ではないか、と気づきました。検閲する上官は意に留めない、受け取った家族だけが気づくことができる番地の誤りです。はがきをこの”日付”順に並べると、内容が自然に理解されます。また”日付”が書かれていないはがきは、どうやら”日付”のあるはがきと同時に出されたものも多いらしいこともわかってきました。一方、こうして全体の内容の流れが出来たことによって、これらの”日付”の中には残念ながらひとつも翌昭和20年の日が紛れてはいないことも判明しました。


 つる氏宛の「九一〇(9月10日)」のはがきは、いつになく小さな字でしかもいつになくびっしりと書かれています。末尾は「皆々様の御健康と御幸福を異郷の地より御祈りして居ります」「しばらく手紙が出せん」「此の手紙一本しか出せぬ故町役員や在郷軍人や友達等に宜敷」とやはりいつにない内容で終わっています。このはがきこそがフィリピンから届いた最後の消息でした。保太郎氏は確かにこの日までは生きていました。アメリカ軍が翌10月のレイテ上陸作戦に向けてフィリピンを猛爆し始め、日本軍部隊が次々と全滅し始める頃のことです。

(加藤和俊)

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

漢字と片仮名で書かれたはがき

こどもたちへのはがき(昭和19年3月15日)

漢字と平仮名で書かれたはがき

最後となったはがき(昭和19年9月10日)