円筒埴輪
埴輪(はにわ)というと、一般的には人や馬の形をした埴輪を思い浮かべる人が多いように思われる。しかし、実際に古墳から出土することが圧倒的に多いのは、土管のような形をした円筒埴輪である。
円筒埴輪は4世紀から6世紀頃の300年以上にわたり多くの古墳で使用され、墳丘に大量に並べられることが基本であった。古墳を区画し、荘厳化する意味があったと考えられる(写真1)。
円筒埴輪は長い年月のなかで埋もれてしまうが、古墳を探査しているとその破片が見つかることがある。こうした破片や発掘調査で出土した埴輪から型式学的検討が進み、埴輪から古墳の年代がおおよそわかるようになっている。さらには、地域性や埴輪を作る人々(工人)の研究も進み、古墳時代の研究をするうえで欠かせない基礎資料となっている。
館蔵品のなかには、50を超える古墳から出土した円筒埴輪(片)がある。その中から、尾張の特徴がみられる5世紀後半から6世紀前半にかけての円筒埴輪3点を紹介する。
写真1 復元された志段味大塚古墳(参考)
松ヶ洞8号墳は、一辺8.4mの方墳で、墳丘裾に埴輪が樹立されていた。そのうちの1点がこの円筒埴輪で、高さ30.5㎝、口縁直径28.0㎝、寸胴なかたちで、胴部は2本の突帯(とったい)で3段に分けられる。中央の段には円形の透孔(すかしあな)があけられる。色調は薄茶褐色で、野焼きされた埴輪に見られる黒斑(こくはん)がないことから、窯で焼成されたことがわかる。体部の調整は、ハケメ調整が縦方向の後、横方向に一周しており、回転台を使用したことがわかる。底部には尾張の埴輪に特徴的なヒモズレ痕がみられる。
写真2 円筒埴輪(松ヶ洞8号墳出土)
池下古墳は墳丘長約45mの前方後円墳で、墳丘の平坦面で埴輪列が出土している。写真の円筒埴輪は、高さ43.5㎝、口縁直径29.5㎝、松ヶ洞8号墳に比べ背が高いが、同じく寸胴形である。松ヶ洞8号墳と同じく、2突帯3段に区切り、体部の調整も同様の特徴がみられる。色調は赤褐色を呈する。
写真3 円筒埴輪(池下古墳出土)
断夫山古墳は墳丘長約150mの前方後円墳で、東海地域の古墳の中でも屈指の規模を誇る。円筒埴輪は、上部が欠損しているが、現在で5突帯、復元すると6突帯7段となる。現存の高さが67.0㎝と先の2例に比べ大型である。透孔は、下から3段目と5段目にあけられている。体部の調整は先の2例と同じく縦方向の後、横方向に回転によるハケメ調整が見られる。色調は灰色で固く焼締まり、須恵器と同様といってよい。
写真4 円筒埴輪(断夫山古墳出土)
これらの円筒埴輪は、寸胴形で多くは2突帯3段であること、体部を横方向の回転による刷毛目調整を施すこと、底部のヒモズレ痕などの特徴をもつことなど、5世紀後半から6世紀前半の尾張の円筒埴輪に共有される特徴を持つ。こうした埴輪群は、「尾張型埴輪」と呼ばれている。
他地域の埴輪は専用の窯で焼かれていた場合が多いが、尾張では春日井市下原古窯で須恵器と埴輪がともに出土すること、須恵器と共通する製作技法が使用されていることなどから、尾張型埴輪が須恵器と同じ工人集団により生産がされていたことがわかっている。
尾張型埴輪のもうひとつの特徴が、埴輪の大きさと使われている古墳の大きさが相関関係にあることである(図1)。東海地域で最大の断夫山古墳の埴輪が、高さ70㎝以上あり、段数も多い。墳長約45m前方後円墳で池下古墳の円筒埴輪が高さ43㎝、一辺8.5mの方墳である松ヶ洞8号墳の円筒埴輪が高さ30.5㎝など、古墳の階層性が埴輪によっても表現されている。
さらに、尾張型埴輪は現在の愛知県西部に集中している一方で、岐阜県可児市宮之脇11号墳や兵庫県川西市勝福寺古墳など他地域にもわずかに分布する。
尾張型埴輪が盛行するのは、5世紀後半から6世紀前半であり、尾張で多くの前方後円墳が造られた時代でもある。この時期の尾張では、文献上「尾張氏」が勢力を得た時代である。続々と築造された前方後円墳に当時の首長層の動向と尾張氏の動向を重ね見る研究も多い。
尾張型埴輪は、古墳の年代を示す基礎資料であるだけなく、古墳時代の埴輪工人集団や首長層の動向を示す歴史資料となっている。
図1 尾張型円筒埴輪の階層性
(瀬川貴文)
※本資料(もしくは同じ古墳から出土した別の円筒埴輪)は常設展テーマ3「古墳とその時代」に展示しています。
赤塚次郎1991「尾張型埴輪について」『池下古墳』愛知県埋蔵文化財センター
浅田博造2007「尾張型円筒埴輪の製作手順と規格化現象-味美技法の解釈をめぐってー」『伊藤秋男先生古希記念考古学論文集』伊藤秋男先生古希記念考古学論文集論集刊行会
名古屋市博物館2012『尾張氏☆志段味古墳群をときあかす』