コレクション

帆山唯念「平治物語絵巻」六波羅行幸巻(模本)

合戦絵巻の傑作を写す

 「平治物語絵巻」は、平治元年(1159)の平治の乱を題材とする軍記物語『平治物語』の内容を描いた鎌倉時代前期成立の絵巻物である。合戦絵巻の傑作として知られ、三条殿夜討巻(ボストン美術館蔵)、信西巻(静嘉堂文庫美術館蔵)、六波羅行幸巻(東京国立博物館蔵)の三巻のほか、六波羅合戦を描いた巻の残欠が伝存している。今回紹介するのは、帆山唯念(ほやまゆいねん 1823~1894年)が、万延元年(1860)に「平治物語絵巻」六波羅行幸巻を写した模本(以下、唯念本)で、平清盛らが二条天皇を六波羅の清盛邸に迎える内容を描くものである【挿図1】。

帆山花乃舎による平治物語絵巻の模本の全図

【挿図1】 帆山唯念筆「平治物語絵巻」六波羅行幸巻(模本) 館蔵(森川コレクション )

帆山唯念

 帆山唯念は、号を花乃舎(はなのや)と言い、三重県・桑名の真宗高田派・䑳崇寺(りんそうじ)の住職を務め、やまと絵を得意とした画僧である。唯念の生涯については不明な部分も多いが、はじめ尾張のやまと絵師・渡辺清(わたなべきよし 1778~1861年)に学び、のちに浮田一蕙(うきたいっけい 1795~1859年)に師事したと伝えられている。一蕙と唯念の関係を示す逸話としては、三重県・津出身の曹洞宗の僧侶・澤木興道(さわきこうどう 1880~1965年)の講話の中で、地元の絵師から伝え聞いた話として、唯念が見た一蕙の姿について語られている。一蕙を慕っていた唯念が、師にまつわる話を語った内容が地元で伝わっていたと思われ興味深い。

 浮田一蕙は、古代・中世の古典絵画に理想をもとめた復古やまと絵派と呼ばれる絵師の一人で、様々な絵巻を模写して学び、その図様や構図、筆法を自身の絵画制作に活かしていた。唯念も、本模本の制作を通して古画の手法を学んだと思われる。

唯念本の位置づけ

 模本には、画面の剥落や損傷なども忠実に写し取る現状模写(剥落模写)と、それに対し、原本の剥落を絵具で補い復元した状態で写す復元模写がある。また、全体に彩色を施さず、色のメモ(注記)などを付したものもあり、こちらは粉本や有職研究などの手控えとして写されていると考えられる。唯念本は復元模写の方法をとっている。

 奥書【挿図2】によると、江戸幕府の奥絵師として活躍した木挽町狩野家の絵師・狩野栄川院典信(かのうえいせんいんみちのぶ 1730~1790年)の家に伝わった「平治物語絵巻」六波羅行幸巻の模本(以下、典信本)を写したものが唯念本であるとわかる。残念ながら、この典信本の所在は明らかでない。



奥書

右六波羅行幸絵巻物は

狩野栄川院家蔵にして

古土佐筆の写也


落款・印章

万延元庚申歳仲秋 持名院法橋唯念摸

 「持名院文庫印」(朱文長方印)

奥書と落款の画像

【挿図2】奥書と落款・印章

 さて、奥書と署名を見比べると、その書体が異なるのが気にかかる。絵巻の模本の詞書では、原本の書風を忠実に写すものと、本文を写すことに注力し書風は等閑視するものがある。唯念本を原本と比べてみると、文字の配置から書風まで忠実に写し取ろうとする態度が看取できる。そのためこの奥書も、唯念が写した模本に書かれていたものを、書風とともに写した可能性、すなわち①原本→②典信本→③典信本の模本→④唯念本という写しの経緯を経た可能性も考えられるであろう。典信は江戸中期の人物で唯念とは活躍期が異なり、典信以降も木挽町狩野家の絵師は代々活躍していたため、唯念の時代に奥書に「狩野栄川院家蔵」と記すのは少々不自然に思われる。「③典信本の模本」に付されていた奥書の内容である可能性も考慮しておきたい。

唯念本からわかること

 模本は作品の単なるコピーではなく、様々な歴史的な情報や価値を持った資料である。唯念本からは、まずひとつに、奥書にあったように狩野典信が「平治物語絵巻」を写したという事実が判明する。典信の作品は比較的多く残っているが、武士や合戦を描いた作例はほとんど確認できない。それゆえ、合戦絵巻を模写して学んでいたという事実は、典信の画業を考える上で看過できない情報である。

 また、原本と比較することで、模本の制作者がどのような考えや意図をもって作品を写したのかがわかる。そこで唯念本を原本と比較してみると、場面の順番が異なっていることが判明する。「平治物語絵巻」六波羅行幸巻の原本は、詞書・絵ともに四段から成り、内容は以下の通りである。

 第一段:女房姿に変装した二条天皇が内裏から車で脱出し、六波羅に行幸する。

 第二段:天皇の母・美福門院も六波羅に御幸する。

 第三段:六波羅門前の武者揃い。

 第四段:二条天皇の脱出を聞いた藤原信頼、もぬけの殻の御所を確認し悔しがる。

唯念本では原本にある第一段の詞書が欠落し、また第二段の絵の一部が、冒頭にきてしまっている。第一段に描かれた女房姿に扮した二条天皇の姿【挿図3】を、第二段の美福門院の姿と誤解したためにこのような順番になってしまったのかもしれない。参考までに、原本の通りに場面を並び替えた図を掲載しておく【挿図4】。

牛車とそれを取り巻く人々

【挿図3】二条天皇、女房に扮して牛車に乗り内裏を脱出する

唯念本平治物語絵巻の全図復元

【挿図4】原本の場面順に並び替えた図

写しを重ねるたびに表現は原本からは遠くなっていくが、唯念本でもそれは例外ではなく、鎧の小札(こざね)や装束の細かい文様、一部の人物の黒目などは省略されている【挿図5】。前述の場面の順番の狂いとこの省略が唯念によっておこなわれたのか、典信本などですでに省略されていたのかは残念ながらわからない。一方で建築の表現は非常に緻密で、原本の描写をよく継承しており、唯念の堅実な画力を示してくれている。

 人物に注目すると、面長の顔に「八」の字眉の顔貌表現【挿図5】や、足の指を筆先をはらった細い線で表し、指先を閉じないという特徴的な表現【挿図6】は、原本からしっかりと受け継がれている。言い換えれば、典信も唯念も、これらの表現がこの絵巻の特徴だと見做したゆえに、これらの細やかな表現を確実に描き継いだのだと考えられる。

人物の顔の絵を並べた画像

【挿図5】顔貌表現

人物の足先の絵を並べた画像

【挿図6】足の指の表現

唯念本の伝来

 唯念本は、近代の中京を代表する数寄者・森川如春庵(もりかわにょしゅんあん 1889~1980年)の蒐集品である。如春庵旧蔵品のうちの188件211点は、名古屋市に寄贈され、現在「森川コレクション」として当館で収蔵・活用されている。

 唯念本の箱の蓋裏には、如春庵の茶の湯の師であった尾州久田流宗匠・下村西行庵(しもむらさいぎょうあん 1833~1916年)によって「先師花乃舎筆 六波羅行幸」と書き付けられており、西行庵の旧蔵であったことがわかる。西行庵は唯念に絵を学んでいたため、師から直接この絵巻を譲り受けたと推測される。

 如春庵が生涯手元に置いた黒楽茶碗の名品「時雨」も西行庵の旧蔵であった。詳細な経緯は不明だが、唯念本は西行庵から如春庵の手に渡ったと考えるのが穏当であろう。

参考文献

小松茂美編『日本絵巻大成13 平治物語絵詞』中央公論社、1977年

『澤木興道全集 第5巻』大法輪閣、1978年

図録『茶人のまなざし 森川如春庵の世界』名古屋市博物館、2008年

(藤田紗樹)

館蔵(200-1-76 森川コレクション) 紙本著色 一巻 縦43.2cm×横928.1cm