コレクション

粕畑貝塚の石器・・・縄文時代のものの移動を物語る石匙(いしさじ)と石鏃(せきぞく)

1 粕畑貝塚のこと

粕畑貝塚は、名古屋市南区にある縄文時代早期(およそ1万1500年前から7200年前)の貝塚遺跡です(図1)。

天白川付近の地図

図1

 天白川右岸の笠寺台地の東の端にあった面積60平方メートルほどの小さな貝塚で、早くから住宅が建ち並び土取工事によって消滅しています。
東海地方の縄文時代早期の後半にはサルボウやアカガイ、ハイガイなど肋脈のある二枚貝の貝がらで土器の表面をけずる貝殻条痕文系土器(かいがらじょうこんもんけいどき)が作られましたが、粕畑貝塚からはその基準となる土器群のひとつである粕畑式土器の標式遺跡です。

 粕畑貝塚は、1927年に当時の鳴海町長であった野村三郎氏によって発見され、1936年前後に吉田富夫氏・杉原荘介氏による数回にわたる発掘調査が行われました。その調査では、貝塚の範囲では薄い表土の下に厚さ20~50cmのおもにハイガイからなる貝層があり、その下に厚さ10cmほどの有機土層が部分的にみられたといいます。縄文土器は貝層からまとまって出土し、粕畑式土器と名付けられました。

 ところで、名古屋市教育委員会が発行している遺跡のリストには「粕畑貝塚」は載っていません。貝塚周辺からは弥生土器、土師器、須恵器なども採集されていて、現在はそれらの分布範囲も含めて「粕畠遺跡」と呼んでいるからです。「粕畑」と「粕畠」と文字が異なります。それは「粕畑」が貝塚の発見された当時の地名「名古屋市南区笠寺町字粕畑」に基づいて名づけられ、「粕畠」が1952年以降の地名「名古屋市南区粕畠町」に基づいて名づけられたからです。

2 石器のこと

 ここで紹介する2点の石器、石匙(いしさじ)と石鏃(せきぞく)は遺跡の発見者である野村三郎氏によって収集されたものです。1933年に粕畑貝塚を紹介した愛知県文化財主事であった小栗鉄次郎氏は「サヌカイト製無柄の石鏃及び同質の縦型石匙が発見されて居る」としています。吉田富夫氏たちは石匙について「野村三郎氏により貝層中より発見されたるもの」と書いています。

1)石鏃

石鏃は弓矢の矢の先に付ける石器です。かたちには多くのバリエーションがありますが、この石鏃は中茎(なかご)のない基部にえぐりが入る凹基無茎鏃(おうきむけいぞく)に分類できるものです(図2)。

石のやじりの写真と図

図2

 先端と片方の脚が欠けています。側縁が先端付近でほんの少し曲がって、全体が五角形となっています。これはいわゆる「五角形鏃」と呼ばれるかたちで、早期後半に多くみられます。片面の中央に平らな面があり素材となる剥片(石のかけら)を打ち欠いたときの剥離面(主剥離面)と思われます。石材の礫面は残されていません。現存長36.6mm、現存幅21.9mm、厚さ4.9mm、重さ2.3gで、二上山産サヌカイト製です。

2)石匙

 石匙は剥片の一方の端につまみ状の突起を作り、縁辺に刃を作り出した石器です。つまみ状の突起と刃の位置関係で縦型と横型に分けられています。この石匙はつまみ状突起の軸と刃部が平行になる縦型石匙です(図3)。

石器の写真と図

図3

 縦長の剥片を使って作られていて、素材とした剥片の打面(打ち欠くときに力を加える面)の側につまみを作り出しています。表面も裏面も素材を薄くなるように打ち欠いたあと、左右両側からえぐりを入れていています。刃部は片側の縁辺に急な角度で作り出しています(図4)。

石器のつまみ部分の拡大写真

図4

 この刃部の下側に細かく不規則に階段状になっている剥がれている痕跡が観察できます。この小さな痕跡は使用したときに欠けた刃こぼれだと思われます(図5)。

石器のつまみ部分の拡大写真

図5

 刃と反対側の縁辺には石材の礫面が残されています。それをみると原石が角礫であったことがわかります。長さ72.8mm、幅29.3mm、厚さ9.1mm、重さ16.4gで、二上山産サヌカイト製です。

3 サヌカイトのこと

 この2点の石器の材料として使われたサヌカイトは黒色緻密なガラス質の安山岩です。打製石器の材料として近畿・中国地方を中心に旧石器時代から弥生時代にいたるまで広く用いられていあすが、東海地方では産出しません。香川県坂出市国分台や大阪府と奈良県にまたがる二上山山麓などが有名な原産地として知られています。二上山山麓は近畿地方最大のサヌカイト原産地です。粕畑貝塚から出土したこの2点の石器の材料も二上山山麓のサヌカイトが用いられていて、運び込まれたものです。それではどのようなルートで二上山から笠寺まで運んでこられたのでしょうか。

4 サヌカイトの広がりのこと

 縄文時代における二上山産サヌカイトの利用された範囲が研究されています。その研究によると、二上山山麓から東への広がりは縄文時代草創期(およそ1万6000年前から1万1500年前)では三重県の伊賀盆地まで、早期の前半には三重県の伊勢地域まで広がり、後半には愛知県の知多半島南部まで広がっていることがわかっています。伊勢地方の北部にはあまりみられないことから知多半島へは伊勢湾を渡る海の道が利用されたと推定されているのです。

 この考えにしたがえば、粕畑貝塚の石器は二上山山麓から三重県南部へ運ばれ、そこから海路で知多半島に渡ったあと、北上して笠寺台地まで移動してきたことになります。わずから資料ですが、これらの石器は早期後半に二上山産サヌカイトが名古屋市南部まで広がっていたことを示す資料といえます。

 なお、粕畑貝塚とほぼ同じ時期の土器や石器を出土している瀬戸市八王子遺跡でも二上山産サヌカイトを材料とする石器が確認されていて、この広がりは名古屋市にとどまらず尾張地方北部までおよんでいたことが知られています。

(川合剛)

*文中で示した年代は、放射性炭素年代測定法によって得られた年代を較正したものです。

文献

伊藤正人・川合剛 1993 『特別展 名古屋の縄文時代資料集』 名古屋市見晴台考古資料館

小栗鉄次郎 1933 「鳴海町雷貝塚、附・附近の貝塚」『愛知県史蹟名勝天然紀念物調査報告』11 愛知県

田部剛士 2007 「サヌカイトの供給(二上山)」『ものづくり』縄文時代の考古学6 同成社

吉田富夫・杉原荘介 1937 「尾張天白川沿岸に於ける石器時代遺跡の研究(1)」『考古学』8-10 東京考古学会