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はばしたすいどうもくひ
幅下水道木樋 名古屋城下のライフライン

木製水道管2本の写真

木樋 幅下遺跡(幅下小学校地点)出土

 江戸時代にすでに上水道が整備されていたことは、ご存知の方も多いのではないだろうか。特に徳川家康の入府(にゅうぶ)から大規模な城下町建設が始まった江戸は、人口の増加に伴い次々と開設された神田上水などの上水道が、低地部を網羅していった。上水道の敷設された近世都市は江戸だけでなく、甲府・福井など、全国に20ヶ所以上を数える。そのほとんどは城下町で、17世紀前半の城下形成期に整備が開始された。都市のインフラ整備は当時から重要な課題であった。

 さて、名古屋城下ではどうだったのだろう。堀川の東側、いわゆる碁盤割を中心とした地域は熱田台地上に位置し、江戸時代は深さ10数メートルの井戸を掘ると飲用に適した地下水を得ることができた。しかし堀川の西側、現在の中村区・西区一帯は、低地で井戸水の質が悪く、飲料水の確保が課題だった。

 寛文3年(1663)、二代藩主光友により、現在の庄内川から取水して名古屋城の御深井(おふけ)堀までの用水を開設し、翌4年に城下西部に上水を通水する計画が始まった。この城下への通水部分が「幅下水道」である。城下西部や堀川両岸は、藩の御蔵をはじめ多くの舟運を頼みとする商人らが軒を連ねる地域であり、美濃路や柳街道といった街道の玄関口としても機能していた。城下の発展に伴ってこの地域の重要性が高まり、町としての整備を本格化することになったと思われる。

 しかし幅下水道は明治期の近代上水道の整備に伴い使用されなくなり、地中に埋もれたまま忘れ去られていた。

 そんな名古屋の上水道が再び文字通り「日の目」を浴びたのは、昭和55年に旧幅下小学校敷地内の工事の際、複数の木樋が出土してからである。出土当時の状況は詳しくわかっていないが、この発見がきっかけとなり、幅下水道の遺構が遺跡として認知されたのである。直ちに木樋2本が保存処理され、館蔵となった。

木製水道管の中をのぞいた写真

木樋の断面の様子

 木樋を観察すると、まず柱状の木材を上部になる部分だけ板状に剥ぎ、下部を断面コの字型にくりぬいてから、板状部材で蓋をして管状に形作っていることが分かる。板の接合には船釘が使われ、隙間にはマキハダ(槇などの樹皮の繊維をほぐして柔らかくしたもの)とみられる詰め物で漏水を防ぐ工夫がされていた。木樋とともに、木樋を接続するための木製継ぎ手部材も発見されている。

 これまで謎とされていた幅下水道は、その後西区小鳥町遺跡・貞養院遺跡でもその姿を現した。調査の結果、木樋が桶や角材を駆使した継ぎ手によって家々の敷地内まで引き込まれ、現在の蛇口に相当する「汲み上げ井戸」まで続く様子が明らかとなった。また木樋だけでなく竹樋も使われていることが分かった。

 水道の利用者は、「水銀(みずぎん)」と呼ばれる使用料を藩に支払うことになっており、誰でも利用できたわけではないようである。堀川沿いの商家の記録からは、これらの水道管の敷地内部分は水銀を支払っても居住者の管理責任となっており、何度も修理され、傷んだ管は交換して使用されていたことも分かった(『師崎屋諸事記』)。

 上水道だけではない。下水は、お風呂は、トイレはどうなっていたのだろう。当時当たり前だったことほど、今となっては分からない。私達の知らない名古屋城下が、まだまだ足の下に眠っている。

(岡村弘子)

江戸時代

西区 幅下遺跡(幅下小学校地点)出土

右:長268.0㎝ 幅18.0cm 高19.0cm

左:長167.2㎝ 幅18.5㎝ 高19.0cm

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。