コレクション

豊臣秀次朱印状

朱色の印が押された書状

豊臣秀次朱印状 (天正20年)2月1日付 館蔵

 「太閤検地(たいこうけんち)」は、豊臣秀吉が天下統一を進める過程で、全国的に行った検地として、みなさんも教科書などで目にしたことがあるだろう。今回は掘り下げて、尾張で行われた「太閤検地」についてさぐってみよう。
紹介する資料は、(天正20年・1592)2月1日、尾張の領主であった秀吉の甥(おい)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が、「尾張国中の検地を実施せよ。」と命じたものである。この検地こそ、尾張で初めて行われた「太閤検地」であった。

命令のタイミング―異例の検地―

 朱印状が出された年は、資料には記載がないが、天正20年(1592)と推定されている。検地とは、田畑の面積(めんせき)・収穫高(しゅうかくだか)を調べ、その結果をもとに年貢(ねんぐ)の徴収率(ちょうしゅうりつ)を決定するという重要な基礎調査である。よって、ある領主が新たに土地を支配下におくと、すぐに実施されることが多い。しかし、秀次は尾張の領主になって、1年半ほど経過してから命令している。
 天正18年(1590)、織田信雄(おだのぶかつ)が改易(かいえき)された後、尾張の領主となったのが秀次であった。尾張は信秀(のぶひで)(織田信長の父)以降、長い間織田氏が支配していた場所であり、新たに秀次による豊臣の支配が始まるにあたっては、体制の再編成が必要であった。さらに、当時尾張は天正地震(てんしょうじしん)や木曽川(きそがわ)の氾濫(はんらん)などの大災害を経験し、荒廃した状況であった。前領主の信雄の検地により、ある程度の基礎情報はあったものの、本来はすぐにでも新たな基準で検地(太閤検地)を実施し、現状を把握することが急務のはずであった。
 一方、秀次は尾張の領主に就任した途端、東北で起きた一揆鎮圧(いっきちんあつ)のため、奥州へ出兵、帰ってくると、天正19年(1591)12月末には、関白(かんぱく)に就任することとなり、京都の聚楽第(じゅらくだい)に入城した。待ったなしの尾張の状況の中で、秀次も豊臣政権の一翼を担い多忙だったのである
天正20年2月は、関白就任後、秀次がようやく一息ついたタイミングであったと考えられる。すぐに検地の命令を下したのであろう。実は2月に検地の命令が発せられることも異例なことである。検地はその年の収穫高をみて、田畑の上田・下田などの等級を決めるため、収穫の季節である秋に行われることが多い。しかし、秀次は収穫が終わり田畑に何もない時期に命令を出した。
 地による状況把握が急がれる尾張の状況と、秀次の多忙で厳しい実情が相まってこのタイミングでの命令となったと考えられる。

秀次による「太閤検地」の実態

 本資料にて、秀次は尾張国中の検地を指示し、その方法について言及している。「郡内の村々にある田畑の良し悪しを入念に見計らい、土地の土の様子で徴収する年貢をあらかじめ決定しなさい。」(4~6行目)、最後には気の毒なことに「今年が不作の場合(年貢高に見合わない収穫高だった場合)は、百姓を成敗する旨強く伝えなさい。」とある。
 通常ならば、実際の収穫量を調査し、その結果を元に決定していくのだが、この検地の時は、その年の収穫高が不明確なため、縄を張り面積を測量した上で、今までの申告と土の様子を見極め、田畑の等級・年貢高をあらかじめ決定した。この方法は、今回の検地の特例措置であったと考えられる。
 検地を実行したのは、宛名にある「徳永式部卿法印」こと徳永寿昌(とくながひさまさ)など、秀次の家臣達であった。秀次は前述の通り京都の聚楽第が本拠地で、ほとんど尾張には在国していない。領主不在の尾張で実務を行ったのは、秀次の実父、三好常閑(みよしじょうかん)であった。その元で秀次の家臣達が実働部隊となって、常閑を支えたのである。
 秀次が命じたこの検地は、天正20年3月から検地帳(けんちちょう)が作成されはじめ、その結果を知ることができる。現在6冊の検地帳が残されており(『愛知県史 資料編13』参照)、内容から「太閤検地」の原則どおりに調査されていることがわかる。翌年12月には、国内の面積をまとめた帳面も作成された。
 これにより、尾張も全国的な統一された基準で、土地の状況が把握され、年貢が定められたのである。秀次はこの検地により、尾張の現状を知ることができた。結果をふまえ、天正20年6月10日には掟書(おきてがき)を作成し、尾張支配の基本姿勢を示した。

太閤検地とは

○全国一定の基準で検地が行われた。(それまでは、地域・領主で基準が異なっていた。)
○石高【収穫高を米に換算】で計算する。(それまでの貫高【収穫高を通貨(貫)に換算】
を改めた。)
○単位が統一された。
    ・1間=6尺3寸
    ・1間四方=1歩
    ・30歩=1畝
    ・10畝=1反
    ・10反=1町
○上田、中田、下田、下々田と等級がつけられた。
○各土地の耕作者を定め、検地帳に明記された。
○米を計る際に、京升の使用が定められた。

 この資料は、尾張で最初に行われた「太閤検地」を物語る重要なものである。その実施時期や方針などが判明し、教科書には載っていない、より具体的な内容を示す、興味深い資料である。

(羽柴亜弥)

豊臣秀次朱印状 館蔵(513-9) (天正20年)2月1日付 縦21.4×横57.9cm 

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。