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馬の塔の馬道具…尾張の人々が愛した祭り

 馬の塔は、雨乞いや祭礼などに際して馬を寺社に奉納する行事で、オマントなどとも呼ばれる。尾張や西三河に特徴的な民俗行事で、江戸時代の記録にはしばしば登場する。熱田神宮や大須観音、竜泉寺や猿投(さなげ)神社などにそれぞれ周辺地域が合同して(合宿という)奉納する大規模な馬の塔もあった。
 馬の塔には、本馬と俄馬(にわかうま)の2種類がある。本馬では、趣向をこらした「馬道具(ばどうぐ)」で飾り付けた馬を、警固の行列を組んで寺社に奉納する。これに対し俄馬は、馬に綱を付けて若者たちが走らせるもので、やはり趣向をこらして馬を飾り付ける場合もあれば、裸馬に薦(こも)を巻くだけの場合もあった。
 馬の塔は戦国~江戸時代初期から行われ始めたらしいが、その起源には諸説ある。例えば、尾張藩士高力猿猴庵(1756~1831)はその著書『尾張年中行事絵抄』で、熱田神宮の競馬神事がもとになったのではないかという説を紹介している。また、『近来世珍録』という江戸時代後期の雑録(著者不明)によれば、天正5年(1577)に清須の塩屋という家の下人たちが、田植えを終えた休日が観音の縁日と重なったことから主人の馬を引いて甚目寺へ参詣し、その際に馬を駆けさせて慰みとしたことから広まったという説もあったという。
 かつて盛んだった馬の塔も現在では廃絶してしまったものが多いが、中には馬道具が博物館に寄贈され、当時の様子を偲ぶことができるものもある。
 馬道具は、馬の背に乗せる「標具(だし)」、それに巻き付ける「標具巻(だしまき)」、馬の尻に乗せる「尻駄負(しりだおい)」、馬の両側面に吊す「障泥(あおり)」などで構成される。ここでは、館蔵の馬道具からその一部を紹介しよう。

荒子西之畑屋敷馬道具・荒子西之屋敷馬道具

 荒子村(現中川区荒子)の集落のうち、西之畑屋敷と西之屋敷(ここでの「屋敷」とは集落のこと)が所有していた馬道具。荒子村ではかつて、観音寺(荒子観音)の縁日である5月18日に各集落から馬の塔を奉納していた。高力猿猴庵『尾張年中行事絵抄』には、桜の木をかたどった造り物を標具とする馬の塔が描かれており、とても風流な馬の塔が催されていたようである。また、荒子観音で安政年間(1854~1860)に作られた寺誌『浄海雑記』によれば、荒子村のうち的場屋敷では、後に加賀百万石を領有することになる前田家の矢場が同所にあったという伝承にちなみ、弓と的を標具としていたという。本来、馬の塔の標具はあまり耐久性があるものではないため、毎回、あるいは比較的短期間で作り直すことが一般的である。そのため、江戸時代の荒子の人々は、桜や的矢などしばしば標具のモチーフを変更し、ユニークな馬の塔を楽しんでいたものと思われる。
さて、その後荒子では、昭和3年(1928)の御大典(昭和天皇の即位礼)を記念して各集落が揃って馬道具を豪華絢爛なものに新調した。本資料はそのうち西之畑屋敷・西之屋敷のもので、それぞれ竜と虎、竜と獅子をかたどった立体的で重量感あふれる尻駄負が特徴である。
 この時新調された馬道具は全7体で、いずれも昭和32年(1957)に旧名古屋市文化財(文化財保護助成要綱による)に指定されている。
ところが、文化財保護条例が制定され、昭和48年(1973)に改めて荒子の馬道具が市の文化財に指定された際には、大中脇屋敷(荒子連合町内会所蔵)・西之畑屋敷・西之屋敷の3体しか指定されなかった。荒子では、馬の塔そのものが昭和39年(1964)の荒子観音鐘撞堂竣工を記念して催されたものを最後に途絶えてしまっており、その後他の屋敷では馬道具を維持することができなかったため、指定から外れたようである。
しかしそのような中、本資料はいずれも完形で遺されており、当時の馬の塔の姿を伝える貴重な資料となっている。

飾り付けられた木馬の写真

荒子西之畑屋敷馬道具 
江戸時代後期~昭和前期 館蔵 名古屋市指定有形民俗文化財

飾り付けられた木馬の写真

荒子西之屋敷馬道具 
江戸時代後期~昭和前期 館蔵 名古屋市指定有形民俗文化財

荒子上中脇屋敷馬道具

   荒子で昭和3年(1928)に御大典を記念して作られた馬道具のひとつ。完形ではないが、標具巻と障泥はおおむね保存状態が良好である。
 『浄海雑記』によれば、上中脇屋敷は前田家から馬具を拝領したという伝承を有しており、そのため馬道具には前田家の家紋である梅鉢紋をあしらっていたという。本資料の障泥にも梅鉢紋があしらわれており、同屋敷が昭和にいたっても前田家との由緒を重視していたことがわかる。
 標具巻は、俵藤太物語をモチーフとしている。平安時代の武人・俵藤太(藤原秀郷)が琵琶湖の竜神に依頼されて大ムカデを退治する説話で、瀬田の唐橋の上で弓を引く人物が藤太、傍らで彼を見守る女性が竜神である。弓を引き絞る藤太が見つめる先では、三上山から姿を現した大ムカデがこちらをうかがっている。妖怪退治の緊迫した雰囲気をよく表現した逸品といってよいだろう。

羅紗地に金糸で刺繍して絵を描いた幕状の飾り

標具巻(荒子上中脇屋敷馬道具) 昭和3年(1928) 館蔵

羅紗地に金糸で刺繍して絵を描いた幕状の飾り

標具巻(部分)

羅紗地に金糸で竜を描き、中央に金属板の梅鉢紋を付けた板状の飾り

障泥(荒子上中脇屋敷馬道具) 昭和3年(1928) 館蔵

守山村の馬道具

 守山区市場の白山社境内にあった郷蔵(ごうぐら)に保管されていたもので、守山村から同社に奉納された馬の塔の馬道具。完形ではないが、3組の泥障が比較的良好な状態で残っていた。守山村は3つの集落に分かれていたというので、各集落から1頭ずつ馬の塔を出したのであろう。
 1組目は、源平合戦の壇ノ浦の戦いにおける義経八艘飛びのシーンをモチーフにしている。大長刀を手にした武者は源義経を追う平教経である。一方の源義経は大股を広げて右腕を突き出し、バランスを取っているように見える。教経から飛んで逃れ、着地した瞬間を表現したものであろうか。

羅紗地に刺繍で絵を描いた板状の飾り

平教経 
守山白山社郷蔵資料より 江戸時代後期 館蔵

羅紗地に刺繍で絵を描いた板状の飾り

源義経 
守山白山社郷蔵資料より 江戸時代後期 館蔵

 2組目は、やはり源平合戦における宇治川先陣争いのシーンである。京を占領する木曽義仲を攻めようと源範頼・義経軍が宇治川を渡る際、梶原景季と佐々木高綱が先陣を争ったという逸話に基づく。並び矢紋の旗指物を背負っているのが梶原景季、平四つ目紋が佐々木高綱で、両者とも源頼朝から名馬を賜った勇士であった。当初は景季がリードしていたが、高綱は機転を利かせ、景季に馬の腹帯が緩んでいると指摘して締め直させ、その間に追い抜いて先陣の名誉を手に入れた。

羅紗地に刺繍で絵を描いた板状の飾り

梶原景季 
守山白山社郷蔵資料より 江戸時代後期 館蔵

羅紗地に刺繍で絵を描いた板状の飾り

佐々木高綱 
守山白山社郷蔵資料より 江戸時代後期 館蔵

 3組目は、川中島の戦いにおける上杉謙信と武田信玄の一騎打ちをモチーフにしている。現代では、『甲陽軍鑑』(江戸時代前期成立)で述べられるような床几に座る信玄に単騎駆けの謙信が斬りかかるという構図が一般的だが、ここでは千曲川の流れの中で両者が一騎打ちの対決をしている。

羅紗地に刺繍で絵を描いた板状の飾り

武田信玄 
守山白山社郷蔵資料より 江戸時代後期 館蔵

羅紗地に刺繍で絵を描いた板状の飾り

上杉謙信
守山白山社郷蔵資料より 江戸時代後期 館蔵

 いずれも、現代のわれわれが教科書などで学習する『平家物語』等の古典そのものではなく、江戸時代以降に絵双紙、浮世絵や、人形浄瑠璃、歌舞伎等として流布した作品から取材したものと思われる。ここで紹介した資料から、かつての祭礼の様子に加え、当時の民衆がどのような物語に親しんでいたかを考えてみるのもおもしろいだろう。

 (鈴木雅)

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。