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渡辺清筆 柿本人麻呂像…歌聖の姿を描く

尾張のやまと絵師 渡辺清

 渡辺清(わたなべきよし 生没年1778年から1861年)は、名古屋の本町で縫箔屋(ぬいはくや)を営む家に生まれ、名古屋を拠点に活躍した絵師である。14歳で狩野派(かのうは)の町絵師吉川英信(よしかわひでのぶ)・義信(よしのぶ)父子に絵を学び、のちに京都に出て、宮廷の絵所預(えどころあずかり)をつとめていた土佐光貞(とさみつさだ 生没年1738年から1806年)の門に入った。清は熱心に土佐派の画法を学んだが、故郷に残した母のため、3年後に名古屋に戻り、長者町(現:名古屋市中区)に住んで画塾を開いた。温雅(おんが)で朴訥とした画風が名古屋で人気を博し、数多くの作品が伝存している。

清筆「柿本人麻呂像」

古代の貴族装束を着た男性が座っている

渡辺清筆「柿本人麻呂像」

 今回紹介するのは、清筆の「柿本人麻呂像(かきのもとひとまろぞう)」である。
柿本人麻呂は『万葉集(まんようしゅう)』の代表的な歌人で、後世には歌聖(かせい 和歌に優れた人物)として尊崇され、和歌の上達を願って盛んにその姿が描かれた。以下の通りの和歌を含む賛がある。

なるかきのもとのその身は下ながら言の葉たかくあふくこの神
こははやくよめりし歌にしてことし文政九年冬書たり 平大平

 平大平(たいらのおおひら)は、本居宣長(もとおりのりなが)の弟子で、のちに宣長の養子になり本居家を継いだ本居大平(もとおりおおひら 生没年1756年から1833年)である。清は宣長の長男春庭(はるにわ 生没年1763年から1828年)に和歌を学んでおり、本居家の人物と交流があったようだ。本作以外にも、清の絵に大平の賛がある作品が数点知られている。
 和歌は、「かきのもと」を読み込んだ物名歌(ぶつめいか 物の名を詠み込んだ歌)で、文政9年(1826年)の冬に詠まれたことがわかる。絵もおよそ同時期の成立、すなわち清49歳の円熟期の作品と見てよいであろう。謹直な描線、堅実な人体把握、穏やかな雰囲気を湛えた人物の表情は、清の作品にみられる特徴をよく備えている。

さまざまな柿本人麻呂像

 時代を越えて数多く描かれてきた人麻呂像には、さまざまな姿がある。そのうちもっとも一般的な図様は、平安時代の貴族藤原兼房(ふじわらのかねふさ 生没年1001年から1069年)が夢に見た人麻呂の姿、すなわち、直衣(のうし 貴族の平常服)姿で薄色の指貫(さしぬき 裾が紐でくくれる袴)を履き、紅の下袴(したばかま)を着け、萎烏帽子(なええぼし)を被り、右手に筆を、左手に紙を持ち、歌を案じる様子で宙を見つめる「兼房夢想系(かねふさむそうけい)」と呼ばれる型である。
 字面だけ追えば、本作の人麻呂も兼房夢想系と一致するかと思われるが、兼房夢想系の人麻呂は、右ひざを立て、左手の紙が巻紙であることが多い。また、装束も兼房夢想系の人麻呂は萎装束(なえしょうぞく)で描かれるが、本作は装束にやや硬さが残る表現であるなどの違いがある。
結論を先に述べれば、清の人麻呂像は、秋田藩主・佐竹家(さたけけ)に伝来した歌仙絵の傑作、佐竹本「三十六歌仙絵(さんじゅうろっかせんえ)」(13世紀成立)の山辺赤人(やまべのあかひと)の姿を借用して描かれたようだ。
 山辺赤人は、人麻呂とともに歌聖と仰がれた『万葉集』時代の歌人である。画面右を向き、やや上を見上げた顔、弧を描いて下がった眉、目尻に入った皺など、人物の造形は近似する点が多い。また、硯箱の傍らに墨が置かれ、硯には墨を摺った形跡が残るところまで共通する。佐竹本の赤人の姿を参照したことは間違いないであろう。
 ここで、清は人麻呂ではなく赤人を描いたのではないかとの疑問も生じるが、浮線綾(ふせんりょう)文様が配された白の袍(裏地の縹色が透けて水色に見える)と縹色の指貫、袖からのぞく赤の単(ひとえ)という装束は、近世の人麻呂像によく見られ、また、赤人のように指貫の裾から足をのぞかせる人麻呂像の例は少ないことから、人麻呂として描いたと判断できる。人麻呂を描くのに赤人の図様を用いた理由は定かではないが、中世に流布した人麻呂と赤人を同一人物とする伝説を踏まえたのかもしれない。

清と佐竹本「三十六歌仙絵」

 では、清はどのように佐竹本を学習したのであろうか。佐竹本は、もとは京都・下鴨神社(しもがもじんじゃ)に伝来し、19世紀初めごろに佐竹家に移ったと 考えられており、清が直接目にする機会はなかったと思われる。おそらく佐竹本の模本を参照したのであろう。
 京都市立芸術大学芸術資料館には宮廷の絵所預を務めた土佐家(とさけ)の粉本(ふんぽん 絵手本)が所蔵されているが、その中には絵師および制作時期不明の佐竹本の写しが含まれており、この写しが清の在京時に光貞の手元にあったとするならば、ひとつにはこの粉本を学習した可能性が想定される。
あるいは、清より先に光貞の門に入っていた、同じ尾張出身の絵師・田中訥言(たなかとつげん 生没年1767年から1823年)が描いた佐竹本の模本を学んだ可能性が考え得る。訥言は活動の拠点を京都に置いていたが、しばしば名古屋を訪れて長期滞在することがあり、清は兄弟子であった訥言から多くを学んだ。訥言の佐竹本模本は、寛政6年(1794年)に制作されており、清の在京時あるいは名古屋帰還後いずれの時期にせよ、訥言の模本を目にすることは可能であったろう。
 以上のように、清の師弟関係を考慮すれば、①土佐家粉本の中の佐竹本の写し、②田中訥言筆の佐竹本模本のいずれかを参照し、佐竹本の図様を学習したと推測される。本作品は清の古画学習の一側面や、近世後期における佐竹本の図様の広がりを考える上で、興味深い資料と言えよう。

 (藤田紗樹)

館蔵(227-78) 絹本著色 43.8cm×横65.7cm 文政9年(1826年)成立

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。