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尾張の篆刻家 余延年…ハンコの達人

 余延年(よえんねん、通称は山口九郎左衛門、1746年から1819年)は、江戸時代後期に活躍した篆刻家である。百済の余璋王の末裔を自称して「余」の姓を名乗った。知多郡大高村(現緑区大高町)で酒造を営んでいたが、本業は家人にまかせ、篆刻や俳諧、作陶など趣味の世界に没頭したという。余延年が制作した印章は評判を呼び、全国から注文があったと伝えられる。ここでは、子孫の家に伝来した資料にもとづき、篆刻家・余延年の業績の一端を紹介したい。

印章と篆刻−篆刻家とは

 篆刻(てんこく)とは、石などの素材に漢字の書体の一つである篆書(てんしょ)を刻み、印章(いんしょう)を作ることである。印章の歴史は古く、中国では秦の始皇帝の時代に形式や制度が整えられたという。古代の印章は、金銀銅または玉といった硬い素材を用いて、専門の職人が鋳造(ちゅうぞう)または彫刻するものだったが、明代に入ると、柔らかな石材を用いて私的な楽しみとして印章を制作する人々が現れる。彼らは字体のデザインや構成、刻み方に工夫を凝らし、朱で捺印(なついん)された印影の美を競いあった。文人趣味のひとつとして明代に流行した篆刻は、江戸時代になって日本に伝えられる。しばらくは明代の様式の摸倣が続くが、江戸中期に活躍した高芙蓉(こうふよう、1722年から1784年)は、中国で出版された印譜(いんぷ、印影を集めた書籍のこと)をもとに、秦漢など古い時代の様式の復興につとめ、素朴で力強い独自の作風を確立する。強い影響力を誇り、日本の篆刻の主流を形作った高芙蓉は、後に「印聖」と呼ばれた。芙蓉のもとからは多くの門人が育っていったが、今回の主人公・余延年もその一人である。

伝来資料から窺う余延年の業績

 余延年は、延享3年(1746年)、尾張の地に生まれた。年少より諸芸に親しんだが、なかでも篆刻に入れ込み、京都に遊学して高芙蓉に師事する。芙蓉の余光にも助けられて、余延年のもとには全国から注文が寄せられた。書画の署名に用いる私的な落款印(らっかんいん)や遊印(ゆういん)のみならず、諸侯の公印 まで制作したと伝えられている。

数多くの印章の集まり

図1 山口家伝来印章群 個人蔵

 さて以上のような経歴が伝えられる余延年であるが、誰のために、どのような印章を作ったのか、残念なことに現在ではよく分かっていない。自らが使用した数十点の印章が伝来しており(図1)、その作風を知ることはできるが、多くの人が争い求めたという輝かしい業績の全貌はつかめない。そこで手がかりとなるのが、子孫の家に伝わり現在名古屋市博物館が所蔵する捺印済みの紙片の山である。注文品の手控えとして残されたと思われるこれらの紙片には、印影に印文と自作であることを示す署名が添えられており、余延年の人気と旺盛な仕事ぶりを証明するものといえよう。

尾張藩校明倫堂の印章

 数多くの紙片の中から、今回は明倫堂(めいりんどう)関連のものを取り上げたい。明倫堂は天明3年(1783年)に開校した尾張藩の藩校で、藩士の子弟が勉学に励んだ。紙片に捺された「明倫堂図書」印は(図2)この明倫堂の蔵書印として制作されたものと思われる。端書には「銅印亀鈕(どういんきちゅう)」と記され、素材と鈕(つまみ)の種類が分かり、「余延年謹篆鋳」と署名も加られる。藩校の蔵書印という準公的な仕事を受注していることが想定できよう。

朱色の細長い印章が捺された紙片

図2 印紙「明倫堂図書」印 館蔵(知多郡大高村山口家資料)

朱色の細長い印章が捺された紙片

 さてこの「明倫堂図書」印であるが、幸いなことに印章そのものが現存しており、名古屋市蓬左文庫に所蔵されている(図3)。亀鈕の素朴な造形が愛らしい銅印であり、紙片の情報通りであることが判明する。この印章は明倫堂の旧蔵書に捺印されており(図4)実際に使用されたことが確認できる。「篆刻」とは異なり、鋳型(いがた)を用いて鋳造する銅印であるが、飾り気のない素朴な印影と併せて、古風な様式を愛したという余延年の作風を知る一例となり得るだろう。

銅で鋳造された亀のつまみの印章

図3 亀鈕銅印「明倫堂図書」 名古屋市蓬左文庫蔵

銅で鋳造された亀のつまみの印章

書籍の一部、捺された印章の拡大図

図4
『大日本史』(部分)
名古屋市蓬左文庫蔵
(明倫堂旧蔵江戸中期写本)

※向かって右下が「明倫堂図書」印。
加えて左上には「尾府内庫図書」印、
左下には「蓬左文庫」印が捺されている。

 なお、紙片の中には同じく「余延年謹篆鋳」と署名が付いた「尾張国校蔵版」という大きな印章も記録されている(図5)。こちらは明倫堂にて復刻出版された明倫堂版と呼ばれる書籍に蔵版印として使われたものである(図6)。以上の二例から、尾張を代表する篆刻家として活躍する様子が具体的に分かるのである。

朱色の丸い印章が捺された紙片

図5 印紙「尾張国校蔵版」印 館蔵(知多郡大高村山口家資料)

書籍の一部、捺された印章の拡大図

図6 『群書治要』(部分)
館蔵(天明七年序明倫堂版)

 伝来する紙片には、試作品や納品に至らなかった失敗作の印影も含まれると思われ、紙片のみから業績を窺うことは早計であろう。明倫堂関連の印章のように、印章の現物や使用状況とあわせて考える必要がある。膨大な山の中には、彦根藩のような譜代の雄藩の為に制作したと思われる印影も含まれており、偉大な業績を明らかにすべく今後も検討を進めていきたい。

(横尾拓真)

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。