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豊臣秀吉朱印状

豊臣秀吉朱印状

(天正20年)5月21日付 天王坊宛

 秀吉は、天正18年(1590)8月小田原の戦いで関東を支配していた後北条氏を倒し、天下統一を成し遂げた。その後、天正20(1592)年3月13日、かねてから計画が進められていた朝鮮出兵の命令を下した。同年3月26日には、数千人もの大行列を率いて華々しく京都を発ち、朝鮮出兵の拠点、肥前(現在の佐賀県)名護屋城へと出陣した。「文禄の役」の始まりである。
 今回紹介する資料は、秀吉が肥前名護屋に到着した約1ヶ月後、天正20年5月21日に尾張名古屋の天王坊宛に出した朱印状である。天王坊が「唐入」の陣中見舞として贈った帷子(かたびら)に対する、秀吉からの礼状だ。わずか4行半の礼状ではあるが、この文書は様々な情報を私達に伝えてくれている。
 この朱印状の宛先「天王坊」とは、三之丸天王社(現那古野神社)別当を務めていた、真言宗亀尾山安養寺華王院である。名古屋城三の丸周辺にあった寺で、古くから那古野の寺院として資料に登場し、織田信秀以降の領主達から寺領の安堵や寄進などをうけている。(明治の廃仏毀釈によって、廃寺となった。)秀吉と懇意にしている人や寺社は、名護屋出陣の報を聞くと、すぐに陣中見舞を用意し、激励の気持ちを伝えた。同じ年に、尾張の寺社では、政秀寺・惣見寺・津島神主が、秀吉に陣中見舞を贈り礼状をもらっている。
 ここで発給された年にご注目。本文に「天正20年」と書かれていないが、なぜ、この年とわかるのだろうか。「唐入」というキーワードがあるからだ。朝鮮出兵の際、秀吉は非常に多くの礼状を発給している。その多くのお礼状の文言を分析すると、「唐入」という表現は、朝鮮出兵が始まった初期の頃にしか使用されていない。秀吉の居所と、「唐入」という表現を根拠に、天正20年のものと比定されている。
 続いて、礼状が出された日付、5月21日に着目してみよう。この日付までの秀吉の動きを確認してみると、3月26日京都発、4月25日に肥前名護屋に到着、そして1ヶ月経たないうちに、天王坊が尾張から運んだ帷子を受け取り、5月21日に礼状を発給したということになる。さて、尾張名古屋から肥前名護屋まで行くにはどれくらいかかるのだろうか。事例として秀吉が各所に移動した時の記事を参考に、各所要時間を計算してみると、肥前名護屋―京都間を早くて22日程、京都―尾張間は約6日かかって移動している。つまり、最短でも約1ヶ月はかかるという計算になる。天王坊は、2ヶ月余という期間、名古屋城から名護屋城まで直線距離にして約670㎞を往復する労力を使って、はるばる帷子(かたびら)を贈ったのである。朱印状の日付をみると、天王坊の使いは、秀吉が肥前名護屋に到着する前に、尾張を出発していたのではないかと考えられる。前述したその他の寺社に対する礼状について、政秀寺・惣見寺は5月2日付で発給されており、確実に秀吉名護屋到着前、ほぼ京都出発時頃に使者を派遣している。尾張の人々は、離れた場所にいる秀吉の情報をいち早く的確に掴んで、対応をしていたことが読み取れる。
 また、天王坊・政秀寺・津島神主に宛てられた朱印状が、写しではなく原文書で残っていることも、確認しておきたい。多くの寺社は秀吉の朱印状を大切に保管し、現在まで残してきたということだ。苦労して届けた品への礼状であるから、また海の向こうに出兵するという大事件にまつわる書状だから、秀吉様からの有り難い礼状であるから、尾張の人々の様々な思いを推測できて面白い。
 「朝鮮出兵」と聞くと、海を渡った向こう側の戦況に目が行きがちではあるが、実は尾張でも関連した様々な動きがある。今回ご紹介した資料は、秀吉の朝鮮出兵に対する尾張の人々の反応を伺える、興味深い資料である。

(羽柴亜弥)

豊臣秀吉朱印状 縦43.5cm×横65.8cm

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。