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B29空襲日誌

 これは昭和19年(1944)12月13日から翌20年(1945)3月12日大空襲の翌日、13日までのちょうど4か月にわたり、名古屋空襲の実況を記した日誌です。地上での空襲被害だけでなく、襲来するアメリカの巨大爆撃機ボーイングB29の空中での動向を観察に基づいて毎回克明に記録している点で、他の同様の空襲記録とは一線を画しています。編隊であるいは単機で飛来するB29について、どの方面から侵入しどう旋回しどこへ離脱したか、その経路・航跡の観察結果が、知りえた被害状況と共に記録されています。
 筆者で現在大阪府に住む二村允(ふたむらまこと)さんは名古屋育ち。この日誌の当時は南区の笠寺近くに住む旧制尾張中学校(名古屋大谷高校の前身)四学年でしたが、港区の住友金属工業株式会社名古屋軽合金製造所に勤労動員され、自宅から電車で通勤していました。家や勤務先が名古屋南部だったため、名古屋市上空及び南は大府あたりまでの空が見渡せたそうです。来襲したB29 が自分の方に飛んで来るのかどうか、爆撃機の進路は地上の死命を決するので、空襲時は皆が一様に天を見上げていたのでした。

まさに観察日記

 もともと日記をつけていた二村さんは、昭和19年12月13日に名古屋への本格的空襲が始まると、寝る間も与えず飛来する爆撃機の実態について、日記の延長として、「国語」授業用に用意していた小ぶりなノートを転用し、記録をつけ始めました(全28ページ)。冒頭には飛行するB29の様子を書き写しています(写真1)。文章は、少年であった二村さんの見、聞き、感じたことを空襲終了のたびに率直な言葉で書き綴ったもので、実に生々しいものです。
 内容は、既に知られている空襲の記録と照らし合わせても非常に正確で、かつ補いうる可能性も含む(波状攻撃で侵入する各編隊の順序・航跡など)ことが注目されます。期間中、何も投下せず終わった飛来についても漏らさず記録されているようです。また、数えた敵機の数などの二村さんが見たままの情報だけでなく、空襲後に発表された「戦果」来襲機数・撃墜数・撃破数、「我方ノ損害」機数といった大本営発表の情報を文末に併せて記入するなどしています。
 日誌が始まった12月13日はいきなり猛爆でした(東区大曽根の三菱重工業名古屋発動機製作所が壊滅)。B29 が次々に自宅の真上を通過するため「二時間モ上ヲ見テ居タノデ首ガ痛クナッタ」とあります。また航跡の図が特に詳細なのは2月15日の空襲です(写真2)。10回に及ぶ単機または編隊がどの方面から侵入し、どのように旋回したか、多くの経路を区別するため色鉛筆を用いて図示しています。しかし時には雲あるいは「シマヒニハ火災ト煙デ空ハ曇リ敵機ガ来テモ分カラナクナ」(3月12日の大空襲)って観察不能になることもありました。

恐怖のなかの冷静

・「スゴイ地響ト共ニ防空壕ガユレタ。大キナ地震ガ急激ニ来タヨウダ」(12月18日)。防空壕から家に戻ると屋根に二つの大穴が空きガラスが飛散していました。

・大編隊の襲来に、どちらへ逃げようか迷ったあげく「思ヒキッテ南ヘ逃ゲタ」ところ、先ほどまでいた場所に焼夷弾が盛んに投下され「北ニ逃ゲナイデヨカツタト思ツタ」(1月3日)。

・「爆音ト同時ニ爆弾投下、真上ヲ通過シテ東北方ニ到リ又モ、爆弾投下 コレハ相当近カツタ、自分ノ上デ落サズニ行ツテヤレヤレト思ツタ」(1月24日)。「ウチノ真上ヲ通過南方ヘ脱去 家ノ上デ投弾シナクテヨカツタ」(2月15日)。「相当近クニ落チル音ガシタノデ思ハズ耳眼ヲ押サヘルト何トモナカツタ。不発弾カ何カ知ラヌガ何トモナカツタノデヨカツタ」(3月5日)。大型爆弾なら爆風は直径数百mにも及ぶので逃れられません。結果的には自分のすぐ近くに爆弾や焼夷弾が投下されずに終わっても、敵機来襲による死の恐怖は投下の場合同様に地上にまき散らされたのでした。

・恐怖の一方で「真白イ胴、尾カラハ四筋ノ線ヲヒキ真ニ見事デアル」(12月13日)とか、空襲警報が出ても味方の飛行機しか見えない時は「退屈デアツタ」(1月9日)と書くなど、感じたことで当時口に出すことが憚られるような感想も率直に記入しています。

・B29を迎撃した味方の攻撃による敵の被害についても書かれています。(写真3)
「南方ヘ遁走シテ行ク途中一機編隊ヲ離レ高度モ下リ、白イ煙ヲ出シナガラ逃ゲテ行ツタ」(12月22日)。これは米軍の記録でこの日失われた3機のうちの1機とみられます。「急ニヨロヨロニナツテ機首ヲ下ゲフラフラニナツテグングン落チテイツタ」(3月12日の大空襲)。

“最後の記述”

この日誌の末尾は昭和20年3月の、「十八日」「晴」という文字でプツンと終わっています。翌19日は前回を上回る大空襲にさらされ、もはや日誌どころではありませんでした。二村さん以外の家族はついに疎開。勤労動員中の二村さんは中学を繰り上げ卒業、自宅を出て引き続き実務科生として工場の寮に入るなど、生活環境も激変していました。
その後も昼夜を問わず逃げ回ったことが数知れないと振り返る中、「特に忘れ得ない一つだけ」として二村さんからメモをいただいたのが、昭和20年6月9日の空襲です。警戒警報発令で工場から散り散りに逃げた学徒らが警報解除で工場に戻りつつある時のこと。突如今度は空襲警報のサイレンが鳴り、同時に二村さんの頭上を超低空でB29の編隊が猛スピードで通過、氏の前方に見えていた職場に爆弾が雨アラレと落とされました。たどり着くとほとんどの建物は破壊され、あちこちに死体と負傷者がうごめく修羅場でした。その晩、寮同室で金沢の中学から動員されて来ていた学徒が戻らず、翌日、工場の遺体置き場で彼の亡きがらを発見しました、という内容です。
この令和のメモを、昭和20年3月に書きかけで終わったこの空襲日誌の “最後の記述”として、一緒に大切に保管していこうと思います。

 (加藤和俊)

B29の絵

<写真1>(中扉)

B29の飛行経路

<写真2>(2月15日空襲のB29飛行経路)

爆撃を受けた絵

<写真3>(3月12日空襲のB29による爆撃の様子)