コレクション

ネパール・チベット仏教資料(神谷コレクション)

 尾張の歴史資料を中心に収蔵する名古屋市博物館ですが、実はネパール・チベット仏教に関する144件160点に及ぶコレクションがあります。博物館資料の中でもとびきりの変わり種で、これは名古屋市内で眼科医院を開かれていた、神谷貞義博士(1916-1992)の収集品が遺贈されたものです。
 博士は奈良県立医科大学で教鞭を執っておられた1962年にネパール政府の招きでネパールの首都カトマンズを訪れ、眼科の集団診療をおこないました。以後、たびたび医療協力のためネパールを訪れる内に、異国で医療行為を円滑におこなうためには現地の習慣や文化背景を知る必要があることを痛感し、ネパール、そして隣接するチベットの文化・歴史を研究されました。そのなかで日本との共通点である仏教に着目し、仏典・仏画・仮面などを収集しました。その多くは当時作られた普及品の仏具や旅行者土産でしたが、国王も治療した国手として崇敬された博士に特別に譲られた優れた古美術品もふくまれています。

カードの束にかかれたイラスト入りの経典

<写真1>大乗荘厳宝王経 カーランダ・ヴューハ 18世紀後期 紙製

ネパール仏教の本

 釈迦生誕地、ルンビニの所在する国ネパール。ヒンドゥー教が主要宗教ですが、仏教も信仰されています。
 ネパールへの仏教の伝来時期はよくわかっていませんが、7世紀にはかなり盛んであったことが知られています。玄奘三蔵の『大唐西域記』にもその様子が記されています。13世紀初頭にインドの仏教寺院がイスラム教徒の侵攻によって滅亡すると、多くの学僧が亡命してきました。こうしてネパール仏教はインド仏教最後の法灯を引き継ぐこととなったのです。その後、ネパール仏教はチベット仏教と相互に影響を与え発展していきました。
 しかし14世紀末、ヒンドゥー教徒の王朝により、僧侶の身分がカーストとして固定されてしまいます。僧侶は、世襲の形式的な儀礼技術者へと衰退していきました。さらに18世紀にインド系のシャハ王朝がカトマンドゥ盆地を征服すると、在来のネワール人文化を弾圧し、仏教も滅亡寸前となりました。
 ネパール仏教が再び世界に知られるようになったのは19世紀半ば。イギリス人外交官によって、サンスクリット文献が紹介されたことによります。ネパールでは、仏典を翻訳せず、原語のインド古典語・サンスクリットのままで写経を続けていました。それまで、ヨーロッパの古代仏教研究は、パーリー語やチベット語に翻訳された仏典によるものでしたが、ネパールの本のおかげで、より原型に近い文献を研究することができるようになったのです。経典は、古くはウチワヤシの葉、貝葉に記しました。紙に記されるようになっても、貝葉を模した細長い用紙が用いられています。色鮮やかな細密画を施したものもあり、日本の絵因経を連想させます。

チベット仏教のタンカ

 チベット仏教とは、中国西部に居住するチベット系民族の間で成立した宗教です。元・清朝に保護され、中国にも広まりました。
 6世紀末から7世紀にチベットを統一した吐蕃王朝初期に仏教は伝わりました。吐蕃王朝滅亡後、元となるインドの教派や支持豪族などのちがいからいくつかに分派し、そのうち元王朝に認められたサキャ派が、一時東アジア全土に広められました。ダライラマを教主とするゲルク派は、14世紀後半に開かれました。1642年ダライラマ五世はチベットを再統一し、祭政一致の政権を樹立しました。しかし、中国共産党の侵攻により、1959年、ダライラマをはじめ、宗教指導者のほとんどが亡命する事態を迎えます。つづく文化革命によってチベットの仏教は大打撃を受け、優れた美術品や仏画師が流出しました。
 「タンカ」とはチベット仏教に用いられる軸装の仏画のことです。神谷コレクションには、18から19世紀の作とみられる佳作が数点含まれています。
 チベット仏教の密教は、日本には受け入れられなかった、インド後期密教を発展させたもので、タンカの図柄も、日本人にはなじみのない女尊や忿怒尊を描いたものが多くあります。またラマと呼ばれる高僧信仰も盛んで、歴代の高僧の関連性を図示したツォクシン(集会樹)と呼ばれる特異な高僧像も作られました。

 (山田伸彦)

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

恐ろしい顔をした神様の絵

<写真2>タンカ マハーカーラ(大黒天)

僧侶の系図を樹木のように表した絵

<写真3>ゲルク派のツオクシン (集会樹)