コレクション

大口周魚筆 和漢朗詠集断簡「太田切」臨写

 歌人・書家・古筆研究者として活躍した大口周魚(おおぐちしゅうぎょ:本名・鯛二:1864~1920)は、愛知郡押切村(現名古屋市西区押切)生まれ。祖父の影響により和歌に関心を持つようになる。やがて宮内省御歌所所長高崎正風(1836~1912)の薦めもあって、御歌所へ入り、和歌や文学の学界に寄与すると共に、普及にも尽力。後に『平安時代の草仮名の研究』で学位を得た、尾上柴舟を育て上げるなど後進の指導にも力を入れていた。また、名筆の蒐集にも熱心で、彼のコレクションの精華とも呼ぶべき手鑑、重要文化財「月台」(東京国立博物館蔵)を調製している。さらには書家としても精力的に活動しており、その書風は、「高野切」などの平安期の古筆の趣を醸し出している。

 このように彼の業績については、枚挙に暇がないが、かの有名な『西本願寺本三十六人歌集』を発見し、仮名書道の古典研究会「難波津会」(なにわづかい)のメンバーの一員として筆跡研究にも取り組み、近代の日本書道史研究の基盤を作り上げたことは特筆すべきことであろう。周魚は日本の書の中でも、奈良~鎌倉初期にかけての古筆や、近衛家煕(このえいえひろ:予楽院:1667~1736)を中心に研究しており、その成果は自身が編纂に携わっていた『書苑』などで見ることができる。

 周魚は家煕の書を高く評価しており、彼の筆跡を積極的に蒐集し、その臨書を通じて、彼の筆法の理解に努め、非常に熱心に研究に取り組んだ。さらには、家煕の書法技術の高さを発信しようと『書苑』においても、折々に彼の書を紹介し、弟子たちにも手元にある家煕の書を見せ、その素晴らしさを説いていた。その熱意は、「自分ほど予楽院のものを見たものはあるまい」と豪語するほどであったようだ。

 近年当館に寄贈された資料の中に、家煕が臨摸した「太田切和漢朗詠集」を周魚が臨書した作品、「大口周魚筆 近衛家熙臨摸和漢朗詠集断簡「太田切」」というものがある。

 家煕が臨摸した「太田切」とは、『和漢朗詠集』の断簡。もとは上下二巻の巻子本だが、現存しているのは下巻のみ。美しい舶載唐紙料紙が用いられている。中院家から掛川藩主太田資愛(すけよし:1739:~?)の手を経て岩崎家(現静嘉堂文庫美術館)へ伝えられた零巻(国宝)が残る他、各地に分蔵されている。

 この資料の書写内容である「家煕臨摸の太田切」について周魚は、大正7年(1918)7月5日発刊の『書苑』9巻2号で、「近衞家煕公臨権蹟朗詠」というタイトルで、三重の財界人熊澤一衛(1877~1940)所蔵の一葉をもとに、解説を施している。

 解説によると、「家煕臨摸の太田切」には、家煕自筆の題簽、「権蹟(藤原行成の筆跡の意)朗詠切」が付されていたようであるが、後に分割され、一部は手鑑に、残りは人手に渡ったようである。周魚自身も家煕の臨本の一部を、この年の5月25日に、岐阜某人から入手している。

 また、「太田切」の筆者は現在も不明で、古くから藤原公任の筆によるものと伝称されている。解説を読む限り、周魚も既知であったようだが、タイトルにあえて「権蹟」の名を残しているのは、家煕筆の題僉の存在を尊重してのことかもしれない。

 周魚は、「太田切」と「家煕臨摸の太田切」を比較し、「時代の差こそあれ、筆力の点においては殆ど逕庭(ていけい:へだたりの意)なきものの如し、家煕公の書、決して軽視すべからず。」と、その精緻な臨書能力を評価。加えて、「太田切」の欠落部を「家煕臨摸の太田切」で正確に補えることを指摘している。

 改めて館蔵の一葉を見てみてみよう。紙面に対するバランスを優先させたのか、文字の大きさが「太田切」や、熊澤氏蔵の「家煕臨摸の太田切」と比べるとやや大きい。

 また、落款に「大正戌午(7年)新豫楽院公臨権蹟朗詠所謂太田切之一端者、六月二十五日/以餘墨再摸之、」と記されていることから、周魚が『書苑』の解説を執筆するにあたって、学術的な考察だけでなく、臨書を通じて書風の特徴を理解しようと試みている可能性が考えられる。

 つまりこの資料は、周魚の書法研究が実作と結びついていたことを示す好例とみなせるのではないか。同時に中京地区の名筆コレクターが書道史研究の発展に少なからず寄与していたことを示唆するものであり、近代の書道史研究の実態を物語る手がかりを秘めていよう。

(星子桃子)

*引用については一部常用漢字に変換して表記し、括弧書きで稿者による補記を加えている場合がある。

周魚が詩歌を写した書

和漢朗詠集断簡太田切臨写

参考文献

高橋利郎「大口周魚と『書苑』」(『成田山書道美術館館報』、2002)

高橋利郎「大口周魚の書道史観と手鑑「月台」」(東京国立博物館研究誌、2008)

『書の総合辞典』(柏書房、2010)