コレクション

那古野村之古図 幻の城をさぐる試み

古い街道や寺などの位置が記された絵図

写真1

那古野村古図の文字を活字にした図

図1

 現在の名古屋城のあたり、名古屋台地の西北端に存在していた中世城館[ちゅうせいじょうかん]を、近世の名古屋城と区別して「那古野城[なごやじょう]」と呼んでいる。名古屋台地上には古くから人々のくらしが営まれていたが、室町時代になると今川氏の庶流・那古野[なごや]氏の拠点となり、この頃城館としてのすがたとなったと思われる。天文7年(1538)に織田信長の父・信秀[のぶひで]が那古野城を奪い、尾張東部への足がかりとして信長に引き継いでいくのである。

 近世名古屋城築城にあたり、一帯は大規模な造成が行われ、その痕跡は失われてしまった。江戸時代中期にはすでに城の位置も諸説入り乱れて分からなくなっていたようである。

 館蔵のこの絵図は、裏の題簽に「鈴木秋豊[あきとよ]家蔵 那古野[なごや]村之古図 奥邑徳義[おくむらかつよし]」とあり、更に朱字で「麁[そ](粗)図也」と記される。絵図には東西に通じる道に「古街道」と記され、これに西北へ抜ける道と東南へ抜ける道が記される。右上部の区画に「御城跡柳御丸[おしろあとやなぎおんまる]」とあり、その脇に「今川氏豊[うじとよ]城跡也 今二之御丸[にのおんまる]」の文字が点線で囲われる。その他「万松寺[ばんしょうじ]」「天王様」「那古野因幡殿[なごやいなばどの]屋敷跡」といった寺社・屋敷などのランドマークが記される。点線囲いの文字には、後世の位置比定といった校訂情報が記されているようだ。

 題簽[だいせん]に名のある奥村得義[かつよし](徳義・1793~1862)は、近世名古屋城の百科事典『金城温古録[きんじょうおんころく]』の編者として知られる尾張藩士で、当絵図はその旧蔵資料として伝来した。嘉永3年(1850)6月に記した彼自身の識語によると、この図は尾張藩士鈴木秋豊[あきとよ]の所蔵品を得義[かつよし]自身が書写したもので、貼札の剥がれが著しいため相談に得義のもとに持ち込まれたとのこと、同じく尾張藩士で世相記録『青窓紀聞[せいそうきぶん]』の編纂者でもある水野正信[まさのぶ](1805~68)も同内容の「精図」を所蔵していたことが分かる。得義によれば、原図は虫食い等もあって古びており、剥がれた貼札は元の場所を推測し、点囲いで表現するなど、忠実に写したとある。

 さらに得義は、この図は公的なものではなく民間で作成されたものだとし、「かつて名古屋に居住し、遷府の際に幅下[はばした]へ移住した民の一人が、家蔵[かぞう]の古文書や古図を約三十年前に売却してしまった」という話に触れ、これがその図の写ではないかと考察している。

 得義は、文政4年(1821)に名古屋城調査に関する藩命を受け、天保13年(1842)から『金城温古録[きんじょうおんころく]』の執筆を開始し、安政5年(1858)に第四巻までの校閲をすませ、清書に入る。まさに『金城温故録』の執筆中にこの図と出会ったことになる。

 最終的に、当図は「此図ハ名古屋村庄屋より御普請奉行[ごふしんぶぎょう]エ書出候写之由[かきだしそうろううつしのよし]」と標銘されて『金城温古録[きんじょうおんころく]』の第二巻に収録されたが、収録図には点線で囲われた部分の情報はない。得義が絵図作成時の情報ではないとして割愛したと思われるが、この貼札[はりふだ]部分の情報も、当時の研究のひとつの到達点と位置づけることもできよう。

 『金城温古録』にはこの図と共にもう一点、「慶長以前那古野村之図 寛永年当村庄屋より出ス」と標銘される絵図が掲載されている。こちらは文化14年(1817)7月に月廻舎[げっかいしゃ]の所蔵品を書写したとある。月廻舎については不明だが、この「慶長以前那古野村之図」の元になったと思われる図の写も、館蔵の得儀旧蔵資料の中に遺されている(但し東半分のみで西半分は散逸)。さらにこの「慶長以前那古野村之図」は徳川林政史研究所所蔵の水野正信[まさのぶ]旧蔵資料の中にも遺されていた。

 「那古野村之古図」の識語と、伝来状況を合わせ見ると、名古屋古図とされるものは粗図と精図の2種類あり、得儀が所持していた「那古野村之古図」が、貼紙の朱書通り「粗図」であるなら、水野正信[まさのぶ]が所持していた「慶長以前那古野村之図」が「精図」ということになるだろう。そして嘉永3年に「那古野村之古図」が得儀の元へ持ち込まれたことをきっかけに、精粗の両図が合わされて検討が進んだことがわかる。
 ちなみに精粗両図の違いは、精図とされる「慶長以前那古野村之図」の方が樹木や集落なども一部絵画的に表現されており、確かに情報量が多くみえる。ただし、おそらく原図制作当初の文字情報自体はほぼ同一で、後世の位置比定・考察部分にそれぞれの書写時期に応じて違いが見られる程度だ。そして「粗図」とされる本図は、表現は簡潔だが貼札の情報が明確で書写時期に符合しているため、この情報を元にある程度当時の位置関係を復元することが可能とみられる。
 あくまで後世の書写による情報ではあるが、那古野城のすがたを探る手がかりのひとつとして考察することも、大切ではなかろうか。

(岡村弘子)

那古野村之古図 一鋪

嘉永3年(1850)6月写

館蔵(570-3-1)縦62.1cm 横61.7cm

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承下さい。