コレクション

石造宝篋印塔 名古屋で南北朝時代に遡る、信仰・供養の石塔

宝篋印塔各部位、上から「そうりん」「かさ」「とうしん」「きそ」

宝篋印塔 名称

 石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)は、中近世において全国各地で信仰の塔や墓石としてさかんにつくられた石塔である。下部より、基礎・塔身(とうしん)・笠・相輪(そうりん)と呼ばれる四つの部位で1つの塔とする。基礎の上面に反花(かえりばな)もしくは2~3段の階段上に塔身を据え、その上に四隅に隅飾(すみかざり)を配した笠を乗せ、最上部に相輪を建てるのが一般的である。最下段に基壇や反花座(かえりばなざ)を置く場合も多い。各部位の形状は差異が生じやすく、基礎部に年号を刻むこともあるため、造立年代を推定することができる。

 名前の由来にもなっている、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納めるための塔として鎌倉時代中期に成立した。この経典は、写経・読経し、塔に納めて供養することで功徳が得られることを説く。ただし中世の石造宝篋印塔に経を納めた例は限られており、用途に限らず、一定の特徴を持つ形を指して「宝篋印塔」と呼ぶ。

 祖形は、中国五代十国時代の呉越国王・銭弘俶(せんこうしゅく)がインドのアショーカ王の故事に倣って制作した金属製の小塔や、宋の時代に泉州周辺で造立された石造宝篋印塔とする説がある。日本では、1220~30年代の造立と推定される京都の鶴の塔や旧妙心寺塔、高山寺塔が最古式で、中国式の影響が見受けられる。その後は日本独自の形態が定形化し、地方へと拡散していく。隆盛期を迎えた室町時代には小型品の量産や板碑(いたび)に浮彫(うきぼり)する型式などが生まれ、江戸時代では大名や旗本の墓として大型・荘厳化(しょうごんか)した宝篋印塔が登場した。

 以下は名古屋市博物館が所蔵する石造宝篋印塔のうちの2点である。

名古屋最古の銘をもつ宝篋印塔の基礎

宝篋印塔のうち正面に応安3年(1370)銘を刻む基礎部の写真

応安3年(1370)銘 宝篋印塔基礎

 応安3年(1370)銘を刻む閃緑岩製(せんりょくがんせい)の宝篋印塔の基礎部である。熱田区旗屋の断夫山古墳周辺の便所の靴脱だったところ、郷土史家坂重吉氏の依頼により旧蔵者が保管し、1987年に当館に寄贈された資料である。応安3年は、名古屋市内に遺存する在銘宝篋印塔の中で最古とされる、市指定文化財の宗円寺宝篋印塔と同年の古い銘となる。

 上部は反花とし、上面中央に直径5.5㎝、深さ1.8㎝の枘穴(ほぞあな)を設ける。四面とも輪郭を持ち、内部に格狭間(こうざま)が彫られる。格狭間内は全体を荒く平滑に調整する。

 基礎正面銘文は以下のように刻む。

「應安三庚戌
 真徳大姉
 九月廿二日逝去」

おうあんさんかのえいぬ
しんとくだいし
くがつにじゅうににちせいきょ

 真徳“大姉”という戒名から、女性の墓石として建てられたものである。年号は末尾に逝去と刻むことから没年月日を意味する。格狭間や反花の蓮弁は扁平化せず丁寧な仕上げで、この時期の特徴と一致しており、銘と造立年に大きな時期差は無いだろう。

 中世の宝篋印塔は地方色の型式(けいしき)も多数あるが、関西系と関東系の2系統に大別される。関西系は奈良・京都を、関東系は鎌倉を中心とする文化圏で生まれ、各地に伝播していく。関西系の特徴は1区の輪郭と格狭間を持つ基礎や輪郭がない塔身などが挙げられ、次に紹介する瑞穂通4丁目古墓の形状が典型例である。一方、関東系は基礎と笠の路盤に2区の輪郭を持ち、塔身に輪郭を持つといった特徴がある。当資料の場合は、関西系に相当する。

 残念ながら現存するのは基礎のみで、その他の部位については定かではない。しかし時代が古いほど散逸する資料が多い中、現在見つかっている名古屋の宝篋印塔では最古段階に当たる銘を持つ基礎部という点では大変貴重である。

南北朝時代・応安3年(1370) 基礎幅27.5㎝、厚27.8㎝、高20.5㎝

瑞穂通4丁目古墓から出土した完品の宝篋印塔

完品の宝篋印塔の写真

瑞穂通4丁目古墓出土 宝篋印塔

 14世紀後期頃と推定される硬質砂岩製(こうしつさがんせい)の宝篋印塔である。瑞穂区の瑞穂通4丁目古墓内から出土したもので、石が詰まった常滑焼大甕に入れて土中に埋めてあったと伝わる。同遺跡は他にも五輪塔残欠、灰釉陶器片などが散布していたようであるが、図面・記録等が無く詳細は不明である。1932年より瑞穂小学校に赴任した北村斌夫氏によって収集されたもので、古瀬戸灰釉瓶子(こせとかいゆうへいし)とともに1975年に当館に寄贈された。

 銘は刻まれていないが、塔身の四面には蓮華座上の月輪(がちりん)内に金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)を表す梵字(ぼんじ)を刻む。基礎―塔身―笠―相輪は枘・枘穴(ほぞ・ほぞあな)を有し、完品として組み合わせられる。全て硬質砂岩製ではあるが、塔身と笠に関しては、若干石質が異なる。後補と判断するには枘(ほぞ)の組み合わせに違和感はなく、調整痕が類似するため、同一個体と見て良いだろう。基礎の1区の輪郭と格狭間や塔身の意匠など関西系の典型的な特徴を持つ。

 基礎の輪郭は幅広にとられ、格狭間も線彫(せんぼり)で、内部を掘り下げない。また輪郭をもつ二孤式(にこしき)の隅飾は外側へ張り出している。相輪は、九輪の各幅を線だけで表現する。こうした特徴は精巧に造形・調整する13~14世紀中頃とは異なり、量産による簡略化が進み始める14世紀後期以降の宝篋印塔に見られる。ただ笠の段形の規格などは揃えられ、反花の造形も整い、完全に形骸化していないことから、14世紀後期頃のものであろう。

 銘などは刻まれていないが、名古屋市内で14世紀後期に遡り、かつ完形に組み合わせられる宝篋印塔として優品である。

宝篋印塔 南北朝時代・銘無 最大幅(基礎)24.5㎝ 厚(基礎)24.5㎝ 総高78.6㎝

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

参考文献

坂重吉『尾張石文』飯島書店,1940
三渡俊一「熱田・瑞穂区の考古遺跡」『文化財叢書』第81号, 名古屋市教育委員会,1981
吉田富夫「名古屋の古きほとけたち」『文化財叢書』第22号, 名古屋市教育委員会,1959