コレクション

蓮華忍冬文瓦当

赤い軒丸瓦の瓦当

蓮華忍冬文瓦当

 この瓦当は、名古屋市博物館が1987年に市内在住の某氏から寄贈を受けた資料で、朝鮮平壌市楽浪特別区土城里で出土した、高句麗後期の瓦当である。土城里一帯は、いわゆる楽浪土城跡である土城里土城土城と、その周辺一帯の遺跡群に相当し、本資料も土城里土城との関係を推測できる。

 本資料の特徴・観察所見は、高句麗系瓦当の特徴をよく示すが、概して他型式の高句麗・楽浪の瓦当に比べて事例が少ない。瓦当面の直径14cmである。瓦当文様は、扁平な半球形に隆起する中房をもち、その周囲に一条の細い圏線がめぐる。内区となる主文様はアーモンド形に高く盛り上がる六枚の蓮弁と、蓮弁間に配された六つの忍冬文で構成される。忍冬文は一本の縦線にほぼ直交する三本の横線を組み合わせた、簡略な表現である。主文様の外側には二条の細い圏線ではさまれた外区を設け、高く突起する小さな珠文12個をほぼ等間隔に配列する。外縁は高く立ち上がり無文の平縁である。瓦当内面に、筒部との接合のための刺突が放射状にみられる。胎土は夾雑物を含まず均一な泥質で、焼成は良好、明赤褐色の色調を呈する。

 赤色系に発色する高句麗瓦は一般的に高句麗平壌期のものであるとされる。また、関野貞(せきのただし)は、集安山城子山城の忍冬文瓦当を高句麗中期、平壌発見の「忍冬文と其蕾より變化せる段状葉を交互に繋いで繞らしてゐる」忍冬文瓦当を高句麗末期とする。さらに、アーモンド状の高く隆起する四弁の蓮弁と忍冬文を交互に配する平壌土城里発見の瓦当を挙げ、これを「前兩者の中間に來る者」とした。

 当館が所蔵する瓦当の忍冬文は、関野のいう「段状葉」を表現する点で、平壌および平壌土城里発見の瓦当と類似する。本資料は蓮弁の数は異なるが、蓮弁と「段状葉」の忍冬文を交互に配する点でも、出土地がやはり「土城里」である点でも、関野が挙げた平壌土城里発見の蓮華忍冬文瓦当と共通する。本資料と同型式の瓦は、やはり大同江南岸地域に所在する高句麗の定陵寺跡でも出土しているため、本資料もまた寺院に用いられた瓦である可能性が考えられる。定陵寺跡の瓦当は千田剛道による高句麗瓦編年で高句麗6期=6世紀前半~後半とされる。以上から、本資料は、高句麗平壌期の後半~末期における土城里土城ないしその附近の関連遺跡にともなう遺物であることがわかる。

 本資料と同じ文様をもつ高句麗瓦当は、国内ではこれまで所蔵・報告の事例がごく少数しか見当たらない。関西大学博物館所蔵品、および財団法人東洋文庫が所蔵する梅原考古資料に拓本が知られる程度である。かつて関野貞を中心として土城里土城の調査がおこなわれた当時、遺物の採集は現地の子供たちの手を借りていたという。土城里で採集された高句麗瓦当は多数にのぼるが、にもかかわらず土城里土城の発掘調査出土資料にはそれをみない。このことから土城里採集資料は必ずしも土城里土城そのものにともなう遺物でなく、土城里土城附近の高句麗遺跡を含めた土城里一帯の遺物としてみるべきと考えられる。

 高句麗は427年に、大同江北岸の平壌城に遷都した。土城里土城は、この都の範囲から外れた大同江南岸に位置する。高句麗時代の楽浪土城とその周辺地域がどのような存在であったのかは不明である。しかしながら、かつての楽浪郡の中心であり、大同江を挟んで高句麗の都城・長安城に隣接する城市であることを考えれば、高句麗政権において都城を支える行政・軍事面で重要な拠点だったことは想像に難くない。高句麗時代の土城里土城とその周囲の城市的様相に関わる一資料として、重要である。

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。