コレクション

裁断橋擬宝珠(ぎぼし)

橋の欄干の擬宝珠の写真

悲しさのあまりに架ける橋

 この世とあの世との境、それはしばしば川であり、橋は死者や妖怪、すなわち異界の者と出会う場所だ。熱田社(熱田神宮)の東を流れる精進川(現在の新堀川)の別名は三途川(『熱田之記』)。この川で熱田社の夏越の祓(なごしのはらえ・邪神を鎮めるための行事)が行われたために精進川の名があり、この川の西岸に三途の川の番人、奪衣婆(だつえば)の像を安置した姥堂(うばどう)があったため三途川の名がある。この川と東海道が交わる所、それが裁断橋だ。「裁断橋」というのも変わった名だが、橋のたもとに裁断所(裁判所)があったためとも言われている(『尾張名所図会』)。他にも、裁談橋・讃談橋・三淡橋・斉談橋・サンダガ橋・三途橋・御姥子橋(おんばこばし)など、さまざまな表記・読み方があって一定しないが、三途橋は三途川に由来し、御姥子橋は姥堂に由来するのだろう。死語の世界を想起させる要素の強いこの橋は、遅くとも室町時代の終わり頃(16世紀)には既に架けられていたようだ。

橋とそのたもとのお堂を描いた和本の挿絵

(参考)『尾張名所図会』前編巻四から姥堂と裁断橋

 元和8年(1622)、この橋の架け替えを行った女性がいる。堀尾金助の母だ。金助は尾張国丹羽郡御供所村(ごくしょむら・愛知県丹羽郡大口町)の土豪出身で豊臣秀吉配下の武将として活躍した堀尾吉晴の一族(長子、従兄弟などの説があるが不詳)。天正18年(1590)の小田原城の北条攻めに18歳で従軍したが戦場で病死したと言われている。これを悲しんだ母は、金助の菩提を弔うため、没後まもなく第1回の架け替えを行っている。その後、金助の33回忌を迎えるにあたり、再度の架け替えを行った。これが元和8年のことで、この時に擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた銘文が、わが国屈指の名文として知られている。四基の擬宝珠の内、三基には漢文の銘(ほぼ同文)、一基にはかな書きの銘文が刻まれているが、時代を超え、人々の涙を誘ってやまないのはこちらの方だ。

〔かな銘文〕

てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也

〔書き下し文〕

天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也。

 原文の文字はわずか百四十五字。一字一字が丁寧に刻まれ、素朴で清廉な味わいがある。この下書きとなった文章や文字を実際は誰が書いたのかについては確証がない。ただ、この文章を読み、文字をながめていると、金助の母以外にこの文章や文字を書けた人がいたとはとても思えない。それほど率直で深い実感のこもった文章と文字である。

 功徳を施して肉親の成仏、極楽往生を願うことは当時として特別なことではない。しかし、ことさらこの橋、金助らが小田原へ出陣の際は通ったであろうし、また三途橋の名もある橋を選んだのは、「又ふた目とも見ざる」息子に語りかけたかったからではないだろうか。

裁断橋擬宝珠 かな銘文 1基 名古屋市指定文化財
江戸時代 元和8年(1622) 銅製 高さ72.5㎝ 径34.8㎝
名古屋市博物館蔵(461-21)

※本資料は常設展テーマ7「尾張の統一と信長・秀吉」に展示しております。

参考文献

文化財叢書第31号『堀尾金助と裁断橋』名古屋市文化財調査保存委員会、1962年。
社本鋭郎編『熱田裁断橋物語』姥堂裁断橋保存会等、1980年(再刊)。