コレクション

名古屋市叢雲国民学校学童集団疎開資料

 名古屋市叢雲(むらくも)国民学校(現在の名古屋市立村雲小学校)は、昭和19年(1944)8月14日から昭和21年(1946)3月20日まで学童集団疎開を実施した。疎開先は愛知県葉栗郡宮田町(現在の愛知県江南市)の曼陀羅寺である。曼陀羅寺の本堂、庫裡、書院のほか曼陀羅寺の塔頭や末寺である常照院、寛立院、慈光院、光明院、世尊院、修造院、霊鷲院、本誓院に分かれて分宿したが、これら全てを合わせて宮田寮と称した。

 本資料は、この曼陀羅寺への集団疎開を引率し、途中まで訓導として付き添った教員の一人故A氏が手許に保存された資料である。A氏は昭和20年(1945)5月に本校勤務になり、さらに昭和23年(1948)9月には岡崎市の小学校へ転任された。そうした事情を反映してかどうか、叢雲国民学校の曼陀羅寺への集団疎開を網羅する一括資料というわけではなく、おおよそ次の6つの資料断片群からなっている。いずれも昭和20年と明記されているか昭和20年かと思われるものである。特に断りがない場合は、「名古屋市」と印刷された罫紙を半裁して使用している。

①疎開児童異動表

  • 「在寮児童異動表」
    4月2日から11月4日までの期間の寮ごとの児童数をまとめる。
  • 「在寮生寮別学年別人員調(4月2日現在)(男)」
  • 「在寮学年別在籍数及異動調」
    時期の記入がないが同じ罫紙に寮別学年別に記入。

②疎開児童名簿

  • 「昭和二十年度新入寮児童名簿」
    寮と学年、児童名を記入。
  • 「入寮者名簿」
    3月30日、31日の日付で寮別の児童数を一覧にしたもの。

③入退寮者名簿

  • 「宮田児童寮 八月一日以降退寮者調 九月以降入寮者調」
    退寮児童名と月日を記入。二段目末尾に4名の新入寮者名を記入。
  • 「退寮者名簿」
    退寮月日、学年、児童名、寮名、事由及転出先住所を記入している。期間は4月1日から10月21日まで。
  • 「病気療養ノタメ長期帰省転出者」
    寮名、学年、児童名、月日が記入されている。寮によって偏差が大きいが、日付は4月25日から11月8日まで。

④帰省者名簿

  • 「帰省者記録」
    帰省月日、寮名、学年、児童名、事由、帰寮月日の順で記入。本資料群のなかでは最も分量が多い。

 これら①~④の資料を通覧して驚くのは児童の異動の多さである。さらに、2年生の児童が含まれていたことも注目すべきである。異動の事務の煩雑さからであろうか、集団疎開から転出して縁故疎開した児童の疎開先の国民学校から学籍簿謄本の送付を請求する照会葉書が一通ではあるが含まれていた。

⑤会計簿

  • 「集団疎開宮田児童寮負担金及疎開後援会費会計簿 昭和20年4月」
    月日、摘要(児童名)、受入高、払出高、差引残高の順に記入している。日付は5月10日から10月18日まで。
  • (未払分取替領収書)
    表題がないが、児童名、月次、金額を記入したもの。末尾に「負担金未払分取替 金二千七十三円也 昭和二十年九月二十五日 叢雲校本部 B (捺印)」の署名がある。「児童寮負担金徴収簿」(「名古屋市」と印刷した縦書きの罫紙を使用)と「集疎負担金納入者名簿」は児童名、八月分以前金額、」九月分以降金額の順に記入している。時期は児童によって異なるが、五月分から十二月分まで。「集疎負担金並後援会費納入者名簿」は児童名と金額を記入し、4月から7月までの該当する欄を斜線でチェックしている。末尾に「八月分以降ノ分ハ改メテ次回ニ清算シ送金致シマス 送金票 一金一千三百六十三円也 但集疎負担金並後援会費 右之通送金仕リ候也 八月二十三日 会計A 叢雲校本部B殿」とある。
  • 「集疎負担金、後援会費納入者名簿」
    児童名、金額、摘要の順に記入している。摘要欄は児童によって異なるが、6月分から9月分まで。末尾に1,133円の、A氏からB氏への送金票が記入されている。「集団疎開児童寮負担金及疎開後援会費」は受領日、金額、学年、児童名、町内会名の見出しがあるが、町内会名の欄には何月分かが記入されている。受領日は5月10日から11月20日まで、3月分から12月分までを記入している。

  ⑤のグループの資料は集団疎開した児童の保護者が負担した金額に関する資料である。

「名古屋市學童疎開要綱 愛知県」によれば、集団疎開に要する保護者の負担は、「集団疎開実施ニ伴フ経費ハ保護者ニ於テ児童ノ生活費トシテ月拾円ヲ負担スルノ外ハ凡テ国県及名古屋市ノ負担トスル」はずであったが、10円では収まらなかったこと、10円を超過する分については疎開後援会を組織して徴収したことなど、よく知られていることが叢雲国民学校でも行われていたことを示す貴重な資料といえる。精査が必要であるが、叢雲国民学校の場合は一律に一人ひと月1円をプラスしたようである。また、学童疎開関係資料ではないが、叢雲国民学校後援会決算書の綴りがあり、

  • 昭和十九年度叢雲国民学校教育後援会決算報告書
     支出之部 事業費 職員奨励費 職員慰労金費 1,819円 児童寮寮母 11人分
      440円 児童寮作業員11人分
  • 昭和二十年度叢雲国民学校教育後援会決算書
     支出之部 事業費 集疎児童費 集疎児童費 286円 負担金
      農耕学習園費 21円

と記録されていた。もとより後援会費の90パーセントは在学児童の保護者が納入する会費である。前述した10円プラス1円に加えての保護者の負担があったようである。

 さらに戦後になっても次のような資料が含まれていたことも興味深い。

  • 昭和二十一年五月三日  名古屋市叢雲國民學校教育後援会会計C
      學童集団疎開寮解散帰任旅費払出申請
       一金九百拾五円六十銭也 現金支払
        但学童疎開寮解散ニツキ本校帰任旅費 二十一名分
支給額 移転料 日当半日 電車賃 バス賃 市電 職氏名
43.60円 40円 1.50円 1.50円 0.30円 0.30円 校長D
  • 昭和二十一年五月二十八日
     名古屋市叢雲國民學校教育後援会会計C
      學童集団疎開寮解散帰任旅費払出申請
       一金貳百七拾円六十銭也 現金支払
        但児童寮解散ニツキ本校帰任旅費(六名分)
支給額 移転料 日当半日 電車賃 バス賃 市電 職氏名
45.10円 40円 1.50円 3円 0.50円 0.30円 訓導E

⑥写真

  • 「名古屋市叢雲国民学校宮田児童寮 集団疎開の児童寮昭和19年8月14日~20年3月4月~ 記録スナップ」
    集団疎開先での生活を撮影した写真フィルムとプリントで、疎開後間もなくの時期の写真が多い。紙袋表題を記したものと、アルバムに整理したものとがある。同一写真を複数枚プリントしたものなどがある。プリントの多くは戦後にプリントしたものと思われる。⑦のメモと対照することで、年月日を特定できるものがある。

⑦A氏のメモ

表題はないが、岡崎市の小学校の縦書きの罫紙を横書き2段で使用している。冒頭に述べたようにA氏は昭和23年(1948)9月には岡崎市の小学校へ転任されたが、その転任先の小学校の罫紙に、昭和13年(1938)3月から昭和26年2月までのA氏の動向をメモにしたもの。疎開関係のまとめや、写真整理のためであった可能性もあるが、作成の動機は不明である。とはいえ、集団疎開に関する事柄も散見するので、以下に抄出しておきたい。疎開先でのくらしぶりが垣間見える。

昭和19年  8月14日 集団疎開で4年担任となる
 8月27日(日曜) 宮田校高二女40名洗濯奉仕に来寮
 9月 2日(土曜) 都島町東南部町内会から慰問のため紙芝居を持って
代表F氏来寮
 9月17日(日曜)雨 G氏により職員一同記念撮影
 9月22日 滝実業学校の教室整理 …宮田校へ移動
10月21日(土曜) G氏書院寮H子に面会のため来寮
10月22日(日曜) I、J君岐阜金山へ松茸狩り
10月23日(月曜)晴 前飛保氏神白山神社祭礼
すし
10月24日(火曜)晴 衛生日 虱退治
10月29日(日曜)晴 夜具の日光消毒
11月 1日(水曜)晴 警報発令(2:00~3:30PM)
11月 6日 薪割作業
11月10日(金曜)曇 霊鷲院主応召見送り 壮行式12:30PM
11月15日(水曜)晴 山内にて運動会
12月 4日(月曜)曇 書院面会日 G氏来寮
昭和20年  2月 1日(日曜) 皇后陛下御下賜品伝達式
 2月24日(土曜)晴 各寮寮生活スナップ G氏来寮
 2月25日(日曜)大雪 各寮々生活スナップ中止
 3月 3日(土曜)晴  
 3月 4日(日曜)雨 修了生記念撮影 G氏による
 4月 疎開地で2年生担任
学年担任
2年A 3年K 4年I
5年L 6年M
寮母勤務
本堂…N 慈光院 O 書院 P
庫裡 Q 霊鷲院 R
 4月 1日附 寮母勤務(臨時)として来寮
P N
O K
 4月 2日現在 新入寮生男81女76 157名
 4月 9日 S先生着任
 4月12日(木曜) 宿舎移転
男子職員宿舎…上宮寺 寮母兼任者…光明院
女子職員 〃 …世尊院、霊鷲院
 4月15日(日曜) T先生新任着任
 4月27日(金曜)晴 后夕立
午后作業 5男薪木挽1:30PM-4:00P
   
 4月28日(土曜)晴 宮田校にて天長節式練習
 5月 6日 新任U先生着任
 5月17日 戦災全焼
本校復帰(1年担任)
 5月20日(日曜)雨 I先生御器所校転任のため告別式
 5月22日(火曜)曇 薪木挽
 6月18日(日曜)晴 新任助教(本校勤務)
V W R
 6月25日(月曜) T先生応召
 6月29日(金曜)曇 午后待避訓練
 7月 4日(水曜) 本日よりAE先生疎開寮勤務
 7月10日(火曜) X校長依願退職(6月26日附)
Y先生伝馬校に転補(5月31日附)
 8月 授業場  2年   書院
      3年   慈光院
      4年男 寛立院
      5年男 光明院
      6年男 本堂
      6年女 霊鷲院
      5年女 修造院
 9月 5日(水曜)晴 Z先生千早校教頭に転補
 9月10日(月曜)晴 T先生復員する
10月 3日(水曜) 本日より牛乳給与
10月27日(土曜)晴 運動会(山内にて)10:00AM~3:00P
   
10月31日(水曜) 新任校長AA氏着任
11月 7日 AB先生碧海郡転任挨拶
11月19日 児童疎開地から第一次復帰
11月29日(木曜)晴 第一次復帰引上式
本堂にて 9:00AM
11月30日(金曜)雨 残留児童により新寮編成
男子寮…書院25名 女子寮…霊鷲院14名
              修造院12名
寮職員6名 M  AC O
        AD AE K
昭和21年  3月17日(日曜)雨 町幹部と全職員の記念撮影(霊鷲院庭にて)
 3月20日(水曜)晴 疎開解散式
疎開地から第二次復帰 引揚完了
 3月27日 叢雲国民学校第12回修了式
 3月28日 叢雲国民学校修業式

はちまきを巻いてたらいで洗濯をしている女性たちの写真

疎開先の地元国民学校高等科女子生徒による洗濯奉仕
(昭和19年8月27日)

服を脱いでいる子どもたちの写真

疎開生活スナップ
(衛生日 しらみ退治 昭和19年10月24日)

むしろの上で稲荷ずしを作っている女性たちの写真

疎開先の地元氏神白山神社の祭礼
(昭和19年10月27日)

机の上に白い紙袋が積まれている写真

皇后陛下下賜のお菓子伝達式
(昭和20年2月1日)

寺院の境内で布団を干している子どもたちの写真

疎開生活スナップ
(布団干し 昭和20年2月24日)

雪に覆われた寺院の境内の写真

大雪の曼陀羅寺
(昭和20年2月26日)

(竹内 弘明)

名古屋市叢雲国民学校学童集団疎開資料 一括 昭和19年(1944)~昭和21年(1946)

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。