コレクション

肥桶

木製の蓋付桶の写真

肥桶(蓋付) 全高64.8㎝×口内径31.7㎝

※平成9年8月12日 寄贈者から聞いたお話

 この肥桶は、昭和21~22年(1946~47)頃に多治見の桶屋に頼みヤミ(物資統制の枠外)で作ってもらったもの。肥桶は百姓にはどうしても要るもので、椹(サワラ)で作ってもらった。蓋付の大きいの(樽桶)は肥を汲みに行くときに使った。(守山区金谷付近から)大曽根辺りまで汲みに行った。それも勝手には行けないので、あちらこちらにあいさつに行って。そういうことは父親はうまい人だった。矢田(川)橋のところで検問があったので、肥桶の中に米を隠して橋を渡って、その米と交換で汲ませてもらった。田畑のあちこちに甕(カメ)を埋めて、汲んできた肥をそこへ貯めて腐らせて肥料にした。小さい桶は肥料を田畑に持って行くのに使った。

 昭和34年(1959)に結婚したが、その時にはもう汲みには行っていない。たぶん、昭和30年(1955)頃まで行ったのだと思う。その後も水を運んだりするのには使っていて、全く使わなくなってから20年くらいになると思う。焼いてしまおうと思ったこともあるが、父親が「そのうち何かに使うかもしれないからしまっておけ。」というので、捨てずにきた。

 寄贈者は昭和20年(1945)に空襲で被災し、農具も全て焼失した農家。戦後、農具は一つずつ揃えていったという。下肥が重要な肥料であった時代でもあり、肥汲みは農家の重要な仕事で、肥桶も農家には不可欠なものであった。

 蓋付の肥桶(樽桶)は、肥を汲みに行くときに使用したもの。昭和21~2年頃、多治見市の桶屋で、闇で造ったという。昭和30年頃まで、旧大森垣内村(現守山区)から大曽根界隈まで肥汲みに行ったという。

 汲んで来た肥は、田畑のあちこちに埋めてあった肥甕に貯め、肥料にした。その甕から汲んで田畑まで運んだり、そこから小さい柄杓で田畑に撒く時にはそれぞれ蓋がない専用の桶も用意していた。

 蓋付の肥桶は、物資不足の時代に、闇市場ではこれほどの出来栄えのものを入手できたという、当時の経済の実情を示すものとしても興味深い資料である。

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。