コレクション

知多郡内福寺村検地帳

墨でくずし字が書かれた冊子の裏表紙

巻末

墨でくずし字が書かれた冊子の表紙

表紙

墨でくずし字が書かれたり貼り紙が貼られた冊子の見開き

本文

 中学や高校の日本史の教科書で、武士が田畑にさおを立て、縄を張って面積を測量している検地のさし絵を見たことがあると思う。検地の結果を記録した検地帳から、江戸時代初期の検地の実態や村の土地利用のようすをさぐってみよう。

 知多郡内福寺村(うつふくじむら)は内海谷11ヶ村の1つで、現在の知多郡南知多町内海、名鉄内海駅の東方約1~2kmの地点にあった村である。内福寺川の浅い谷に田畑が広がっていた。17世紀後半の記録によれば、元高372.618石、家数38軒、人口243人の、それほど大きくない村である。18世紀前半の記録によれば、「山隈ノ村落ニテ小百姓バカリ、農業ヲ専ラ生産トシ、商ヒヲ兼ネル者ナシ」とあるように、農業だけの村であった。3分の2が田地で地目は中田が多く、畑地では生産性が低い下畑が大半であった。

 この資料の名称は「知多郡内福寺村検地帳」としたが、正確には写真のとおり「内福寺村本田田畑水帳」である。「水帳」とは検地帳のことであり、検地で縄を使うので「御縄打水帳」などともよばれる。この検地帳は備前検の際に作成されたものである。備前検とは、慶長12年(1607)、徳川義直が甲斐から尾張に移封されたことにより、翌慶長13年、幕臣の伊奈備前守ら3人の検地奉行によって尾張全域で実施された検地をさす。検地は7月20日、春日井郡矢田村(または大幸村)から始まり、3ヶ月後の10月20日に知多郡南端で終了した。この検地帳の巻末に「慶長拾三戊申十月」とあり、内福寺村は知多郡の南端に近いので、検地は10月20日直前に実施されたのであろう。巻末には野田惣左衛門ら3人の名前が記されているが、彼らは伊奈備前守配下の役人である。

 検地帳の正本は領主(尾張藩)に納められたが、村にも控えとして副本(控え)や写本が残された。それは庄屋が各百姓に年貢を割り付ける際、基本台帳となった。この検地帳も村に残った副本、写本であろう。

 備前検で作成された検地帳には、地目(上田~下畑、屋敷地)、反(たん)別(べつ)(面積)および名請人(土地所有者)名が字ごとに記される。ただし一般的に一筆ごとの高も、その合計である村高も記されなかった。そのためこの年の年貢高は免(年貢率)で村に示すことができず、地目ごとに1反あたりの年貢高を示すしかなかった。ところが内福寺村の検地帳は、地目別に1反ごとの標準高(石盛〈こくもり〉という)が巻末に記されている(下表参照)。なぜ内福寺村で石盛を示したのかは不明であるが、備前守が検地作業の終了間際になって、石盛を決めないと年貢徴収に不便であると気づいたのか、あるいは後日石盛が決定された後、村で書き加えたのかもしれない。

この検地帳は、検地以後の名請人名が加除訂正されたり、新しい名請人が貼紙に表示されたりしている。名請人ごとに田畑のデータを集約すると、江戸時代初期の内福寺村の農民構成がわかるであろう。

 なお、『南知多町誌 資料編4』に全文が翻刻、収録されている。

知多郡内福寺検地帳内訳

地目

面積

石盛

石高

上田

6町8反5畝29歩

1石5斗

102石8斗9升5合

中田

10町   6畝20歩

1石3斗

120石8斗6升7合*

下田

5町9反6畝12歩

1石1斗

65石6斗  4合

上畑

1町   6畝7歩

1石1斗

11石6斗8升6合

中畑

2町3反5畝18歩

8斗

18石8斗4升8合

下畑

7町   5畝29歩

5斗

35石2斗9升8合

屋敷

6反1畝

1石2斗

7石3斗2升

合計

33町7反7畝25歩

 

362石5斗1升8合

*計算では130石8斗6升7合

※本資料は常設展テーマ8「尾張藩の成立」に展示しております。