コレクション

中林竹洞家所用印

印鑑がたくさん並べてある写真

中林竹洞家所用印 江戸時代後期~平成 42顆 館蔵

中林竹洞(1776~1853)は名古屋を代表する南画家である。本資料は、竹洞とその家族が用いた印章・印材であり、このうち竹洞の印章の中には、若年時から使用した印章や、代表作に押される印章などの基準的な印章が多く含まれる。

 中林竹洞は安永5年(1776)、桑名町(中区丸の内)の医師の家に生まれた。長男ではあるが、医業は継がず、画家の道を選んだ。師は、尾張における南画の先駆者である山田宮常である。また、中国絵画のコレクターであった富豪、神谷天遊の指導を受け、中国絵画の臨模にも勉めた。30歳代半ばからは京都に定住し、京都画壇の主要作家として全国的な名声を得た。嘉永6年(1853)京都で没。中国古典の様々な画家の画風を独自に解釈した、山水画の名手として知られる。また、芸術論に関する著作も多く、今日ではこの面での評価も高い。

 本資料は、晩年の竹洞をささえた娘で、同じく南画家の中林清淑(1831または1829~1912)の家系に伝わるものである。竹洞自身の印章のほか、娘の清淑と、その夫の三浦湘雲(1818~90)、曾孫女かとおもわれる青洞という人物の印章が混在する。

 竹洞の孫弟子にあたる兼松蘆門(1864~1917)が記した、竹洞研究の基本書『竹洞と梅逸』によれば、竹洞は7名の子宝に恵まれ、4名が成人した。長男竹溪(金吾)、次女町、三女清淑(邦)、三男喜久之助である。中林竹溪(1816~67)は父竹洞と父の旧友である山本梅逸に絵を学び、典雅な山水画や写実を取り入れた人物画を描いている。竹溪と他の三人は母親が異なり、年も離れていた。天保9年(1838)、竹洞は家督を竹溪に譲り、他の子をつれて京都東山真如堂前に隠宅を構えた。老後は清淑を頼りとし、年頃になった清淑に、竹溪が縁談を持ってきたこともあったが、竹洞の世話を理由に断っている。嘉永6年(1853)、78歳で竹洞が没すると、竹溪は強引に清淑の縁談を進め、京都西町奉行浅野長祚(ながよし)の家士であった三浦湘雲に嫁がせた。安政5年(1858)、浅野長祚が小普請奉行に左遷されたのを機に、清淑らは江戸に移住したと思われる。清淑は晩年、京都に戻り、弟の喜久之助の孫娘を養孫に迎えた。この娘は清淑の没後に他家に嫁ぐこととなり、実妹を養女として中林姓を継がせた。印章の寄贈者はこの家系の御子孫である。

 寄贈者宅では、どの印章が誰の使用印であるか伝わっておらず、整理したところ、竹洞の印章が12顆19面、清淑の印章が8顆9面、湘雲の印章が3顆3面、青洞の印章が5顆6面、使用者不明の印章が11顆11面、用途不明の木印が1顆1面、篆刻していない印材が2顆0面の合計42顆49面であった。顆数と面数が一致しないのは、同じ印材の天地に印面が彫られているものや、未使用の印材があるためである。天地に印面のあるものは、片面の篆刻に失敗して彫り直したのではなく、両面が使用されている。写真の「成昌之印」「字伯明」白文方印などは同じ絵画作品の落款で組み合わせて使用される例が多い。

篆刻された方形の印章の写真

天地両面の印「成昌之印」

篆刻された方形の印章の写真

反対側「字伯明」

 さて竹洞が絵画、著作に使用した印を数えていくと、生涯に40種ほどの印を使用していると言われる。今回、その約半数の印が発見されたわけだが、初期の基準印である、「筆樵」朱文方印・「竹洞」白文方印(これも天地両面である)、代表作「青緑山水図」(天保6年(1835)県指定文化財)に用いられる「竹洞自作」朱文方印などが含まれており、中核部分を収集できたといえよう。

 今後残りの竹洞の印章や、ほかの尾張の画家たちの印章が発見されることを期待したい。

※『名古屋市博物館研究紀要』第38巻に全点の印譜を掲載してあります。