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細川忠利書状

くずし字で書かれた古文書の写真

細川忠利書状 寛永17年(1640)11月26日付 館蔵

 寛永17年(1640)11月15日午前11時ころ、江戸鼠穴(現東京都千代田区吹上御苑内)にある尾張藩上屋敷が炎上した。原因は藩士の放火であった。当時上屋敷に住んでいた千代姫(将軍家光の娘、尾張徳川家二代光友の室)は、江戸城に難を避け、新屋敷普請の間は水戸藩邸に仮住まいをした。当時、尾張藩はこの鼠穴の上屋敷のほか、赤坂の中屋敷や八丁堀の蔵屋敷など、いくつもの藩邸をもっていた。なお、上屋敷については、明暦3年(1657)の大火をきっかけに、鼠穴から前年に拝領していた市ヶ谷に移った。

 本資料は、肥後熊本藩主で細川忠興(三斎)の子忠利が、おそらく江戸にいる重臣加々山主馬(可成)に送った書状である。内容は、尾張藩家老の竹腰氏(文中では竹越)あての火事見舞状を用意するよう命じたものである。そして、見舞状をいったん肥後の忠利まで飛脚で送るように指示した(花押を記すためであろう)。そして再び江戸へ送るといっている。肥後では火事の状況がよくわからなかったので、このような複雑な手段をとったと思われる。

 用紙は切紙の短いもので、文面も極めて簡略であるが、それは家臣に対する急ぎの指示だからであろう。いずれにせよ、江戸時代初期の尾張藩と熊本藩の関係を示す好資料である。

縦16.8㎝ 横22.2㎝ 購入資料

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。